はじめて学ぶ文化人類学(4)ーフランツ・ボアズ

このブログはミネルヴァ書房『はじめて学ぶ文化人類学』からとっています。

本章の作者は 太田好信 です。

 

(Franz Boas:1858-1942)

 

アメリカ人類学の祖

 フランツ・ボアズは、ドイツからアメリカ合衆国へ移住、自然ジル医学、考古学、言語学文化人類学の4分野を統合した人類学を構想、それを大学において制度化した人物である。彼は当時支配的であった人種と文化との統一視により、人間社会の多様性を序列化する立場を批判、文化を歴史構成的、相対的、統合的総体として捉える20世紀のアメリカ人類学の礎を築いた。

 今述べた特徴をもつ文化概念をより精緻にしたのはボアズ自身ではなく、彼の薫陶を受けた人類学者たち、例えばマーガレット・ミード、ルース・ベネディクトであった。後に、デイヴィッド・シュナイダーやクリフォード・ギアツらも、ボアズが道を開いた文化概念を鍛えあげた結果、自らの人類学的分析を作り出したといえる。

 また、ボアズが繰り返しフィールドワークを行ったのはカナダ(ブリティッシュ・コロンビア州)北西海岸地域である。それらの調査において、彼は現地研究協力者に依存した。中にも、もっとも有名な人物はジョージ・ハントである。ハントとともに残したクワクワカワクゥに関する民族誌資料は膨大な量にのぼり、現在でもカナダ国内の先住民文化復興に寄与する大切な遺産となっている。

ドイツ、そしてアメリカ合衆国

 ボアズは、ドイツ・ミンデン市の富裕なユダヤ人商人の子として生まれた。彼の少年時代の愛読書の1つは『ロビンソン・クルーソー』であり、すでに異国への憧憬を抱いていたと改装している。ハイデルベルク大学からボン大学へと移籍、1882年にキール大学から物理学の博士号を取得した。しかし、彼の関心は客観的世界そのものよりも、それと主観との関係にあった。

 博士課程修了後、定職が彼を待っていたわけではなかった。ようやく、ボアズはアードルフ・バスティアーンの助手としてベルリン民族学博物館で働く機会を得る。そこで働くうちに、ボアズは環境の季節的変更とイヌイットの移動パターンとの関係解明をテーマに、ドイツの極地探検に参加する僥倖に恵まれる。1883〜84の1年間、カナダ・バッフィン島東岸のイヌイットの素でフィールドワークをした。

 ドイツに戻ったボアズは、ベルリン民族学博物館で収蔵品のカタログ作者の仕事に復帰する。収蔵品の中には、ノルウェー人探検家ヨハン・A・ヤコブゼンがカナダ北西海岸地域から集めた仮面が含まれており、ボアズはその仮面に魅了された。1886年、私財を投じて、バスティアーンのために仮面を収集するという名目野本、ボアズは自分を虜にした仮面が生まれた場所、バンクーバー島へと向かった。

 ボアズは、合計13回ほど繰り返しカナダ北西海岸地域を訪問している。1888年6月、白人貿易商の父とトリンギット人の母との間に生まれ、すでにクワクワカワクゥ社会において重要な地位を占めていたジョージ・ハントに、ボアズは初めて出会う。彼との出会いを境に、ボアズの調査スタイルは大きく変化する。一方において、ボアズはハントに依存するようになり、他方において、ハントは調査の援助だけではなく、1人の研究者としてボアズの理論形成に影響を与えるようになった。

 ボアズの不安定な職を転々とする生活は、やがて終わりを迎える。ニューヨーク市の自然史博物館でのキュレイターの仕事を獲得し、1889年、コロンビア大学に人類学ぶを創設するが、これは好事家の趣味ではなく、プロの人類学者を養成する場所ができあがったことを意味した。

 さらに、ニューヨーク市での生活は、ボアズとアフリカ系アメリカの知識人や芸術家との交流を促した。1920年代、「ハーレム・ルネサンス」と言われる黒人芸術活動の中でもボアズの著作は頻繁に引用された。彼が指導した黒人ゾラ・N・ハーストンは、その運動の中心的人物の1人となった。

 ボアズの弟子たちは愛情を込めて、「パパ・フランツ」とボアズを呼んでいた。コロンビア大学人類学部は、当時白人男性が多数を占めていたアメリカ合衆国の諸大学において、北米先住民、ユダヤ人、女性、黒人、1.5世代と言われる移民の子供たち、外国人たちが気兼ねなく学べる数少ない場所であった。

 ボアズは、84歳で亡くなる。彼の研究生活は長く、その研究テーマも多岐に弥。研究の功罪を含め、「ボアズ研究」というジャンルすら成立しそうである。本章では、ボアズの示した文化概念を素描し、民族誌資料の新たな読解可能性を簡述することにとどめる。

文化概念の基礎理論

 ボアズが人類学を大学組織内部に制度化した功績を疑うものはいない。しかし彼の学問的業績をどう評価するかは別である。1949年、ジョージ・P・マードックは、「ボアズは弟子たちにより過大評価されており、彼は理論家として全く体系だった思考ができていないし、フィールドワーカーとしてもたいしたことはない」と、ボアズの仕事を酷評している。50年代にはレスリー・ホワイトも、同じ理由でボアズの仕事を厳しく批判した。第二次世界大戦後、アメリカ合衆国の社会科学全体が自然科学をモデルとし、一般化や法則を追求しようという方向に向かう中、ボアズのように一般化を嫌い、個別事例の集積と帰納法固執する学者に対する評価は低かった。

 そのような状況を一変させたのは、1960〜70年代にかけて歴史家ジョージ・ストッキングが行ったボアズの仕事を再評価する一連の読解である。ストッキングは、アメリカ合衆国における人類学の最大の特徴とも言える文化概念は、ボアズなしには成立しなかったと結論づけた。

 ストッキングによる読解の骨子は、次のようなものである。19世紀末に近い頃、ボアズの論敵は何人か存在したが、中でもオーディス・メイソンが最大の標的であった。メイソンは、人種と文化との違いを述べ、人間の行動を規定するのは人種ではなく文化であると主張した。文化は人間のもつ多様性の表現であり、それらに優劣をつけることはできず、ハイアラキーには収斂されないという。1911年、ボアズは主著の1冊『未開人の精神』でも、今述べた議論を展開している。

 しかし、人種論への批判以上にストッキングが重要視したのは、ボアズの「変化する音」(1889)という論文であった。当時、「未開言語」の特徴はサウンドブラインドネス(sound-blindness)にあると言われていた。それは、ある言語の母語話者たちの中には、正確な音の認識ができないものがいることをさしていた。特に、イヌイット語話者の中にそのような特徴が報告されていた。

 ボアズは、この結論を否定する。言語学者たちは自らが母語として体得した言語にある音(音素)として、イヌイット語話者の発音を聞き取っていたため、このような結論を導き出したに過ぎないという。ボアズの主張は、知覚とは媒介を通して認識されるから、それは統覚であるという言葉に要約される。

 ストッキングによれば、1970年以降、多くの文化人類学者の間では文化を物質文化や行動パターンそのものではなく、媒介として行動に意味を付与するコード体系として理解すようになっていたのである。

民族誌における共同作業

 ボアズを魅了したカナダ北西海岸地域の諸社会は、すでに天然痘の大流行により、人口が激減していた。それだけではなく、キリスト教ミッションとカナダ総督府はポトラッチの実施を弾圧、禁止した。ボアズはこのような歴史的変化を問題視しないまま、彼の眼前で不可避に消えゆく社会を記録するという立場をとった。

 ボアズの歴史性への無配慮に対して、彼のフィールドワークを援助していたハントは、ボアズとは異なった緊迫性を自らの仕事に感じていたに違いない。ボアズの関心がモノから思想(歌、神話や物語など)へと移行すると、ボアズはハントに自らが考案したアルファベットによる表記法を教え、ハントに冬の祝祭の中心であるポトラッチにまつわる民俗資料の収集を依頼する。しかも、ボアズが不在の時も、ハントが「ここに保存する本(Keeping Here Books)」と呼ぶ黒いノートに、ハントはクワクワカワクゥ社会の生活を詳細に記録していた。ハントは自ら収集した現地語により記載された資料に英語訳を付し、それらの分量はボアズの研究室の棚、「約1.5メートル」を占有するほどであった。

 ボアズとハントとの関係を、人類学者と助手、あるいは研究協力者との関係だと言い切れるのだろうか。確かに、多くの場合、ボアズはハントの名前を共著者として明記し、記録をのしている。ボアズは民族誌的権威を分散していたともいえる。しかし、今述べたこと以上に、ハントは、クワクワカワクゥの人々が近代のもたらした苦境を生きのびるために、ボアズに何かを託していたのではなかろうか。この疑問は、先住民たちのエイジェンシーに関わる。この問いは、先住民は近代の犠牲者に過ぎないのではなく、近代がもたらした災禍を生き抜くための戦略をもち、歴史の主体になろうとしていた、というしてんの転換から生まれる。

ハントがボアズに託した未来

 21世紀において、先住民の研究者たちは、ストッキングの解釈は異なった視点から、ボアズの仕事を復活させている。例えば、ボアズがハントとともに残した資料は、現地の文化復興に寄与する可能性を通し、世界に向けて先住民たちが近代の一員として生き抜いてきた歴史を証明するだけでなく、未来に向けて西洋文明に対し新たな価値を提示してもいるという。

 そのような未来に向けた世界史は、差異によって導き出される対立よりも、ポトラッチのように、多くの異なった社会の人々が参加することにより結びつく、多様性によって特徴づけられるとすれば、それはボアズのヴィジョンとも合致するだろう。そう主張したい理由は、ボアズは『未開人の精神』において次のように記しているからである。「外から影響を被っていない民族はいない。どの民族も近隣の民族から発明やアイディアをそのまま斜陽し、ときには同化吸収している」と。

 21世紀、私たちは対立や紛争の原因には差異を過度に強調する世界観の蔓延があると疑うようになった。そんな時代だからこそ、未来を想像するキーワードとしてグローバル化を世界の連結を含意する概念として捉え直し、多様性が差異とは異なった価値として示されてきたのである。先住民の研究者たちは、ハントが交換、互酬性、そして変容を通して連結する世界という価値観をボアズに託したと述べている。先住民的視点から示されたこの斬新な解釈に従えば、ボアズは世界に対するギフトとして先住民の価値観を伝えた人なのである。

用語解釈

統覚(apperception) 認知とは、知覚システムの媒介があり初めて成立する。例えば、一言語には明確に区別される音が、その言語を初めて学ぶものにとり、自らが慣れ親しんだ言語にその音がなければ、それを聞き取ることが困難である。

ポトラッチ(potlatch) カナダ北西海岸地域の先住民による儀礼。統治形態であるという解釈もある。ホストが招待者たちに膨大な量のギフトを分配する祝祭を伴い、1884年に法律で禁じられるが、1950年代にはその法律は無効となった。