初めて学ぶ文化人類学(3)ーヴィルヘルム・シュミット

このブログはミネルヴァ書房の「はじめて学ぶ文化人類学」からとったものです。

本章の著者は 山田仁史 です。

 

(Wilhelm Schmidt:1868-1954)

 

今日のシュミット

 ヴィルヘルム・シュミットの名は原始一神教や文化圏といった概念と結びついており、これら諸概念はその死後すでに乗り越えられ学史の一コマとなった、というのが今日の一般的な評価である。

 ただしシュミットの学説は、ドイツ語圏民族学ーー社会・文化人類学にほぼ相当ーーの中で1つ重要な位置を占めるのみならず、1952年ウィーンで開かれた国際人類学・民族学会議の名誉会長を務めたことに象徴されるように、その生前における名声は、日本国内も含め国際的に高かった。

 以下ではまずシュミットの生涯を略述し、ドイツ語圏民族学の系譜内に彼の理論を位置付けた後、原始一神教説および文化圏・文化層といったその代表的キーワードを紹介して、最後に彼が日本の研究者たちへ与えた影響について述べたい。

シュミットの生涯

 ヴィルヘルム・シュミットは1868年、ドイツ西北部ヴェストファーレンドルトムント近郊のヘルデにおいて、労働者の家庭に生まれた。2歳で実父を亡くし、母への敬慕を生涯抱き続けたらしい。15歳の時オランダのステイルに本拠を置くカトリック修道会、神言会(Societas Verbi Divini、略称S.V.D.)に入って学業を修めた後、1892年に司祭叙任。翌年からベルリン大学で3セメスター(約1年半)に渡り、オリエント諸言語などを学んだ。このほかはすべて独学である。

 1895〜1938年まで、シュミットはオーストリアのウィーン近郊メートリングにある聖ガブリエル宣教院で教鞭を執り研究に従事するかたわら、聖歌隊のための作曲・指揮・オルガン演奏や一般向け説教など宗教的活動も行った。

 シュミットの研究はまず言語学分野から始まり、東南アジア・オセアニア・オーストラリア諸言語の分類・設定において顕著な業績をあげた後、次第に民族学へシフトした。1906年に民族学言語学の国際的専門誌『アントロポス(Anthropos)』を創刊し、初代編集長そして自らも多くの論文や書評を寄稿している。また第一次大戦期にはオーストリアハンガリー二重帝国最後の皇帝、カール1世の相談役・聴罪師を、1920年代にはローマ教皇ピウス11世のもとバチカンのラテラノ博物館を創設、初代館長を務めた。

 1924年からウィーン大学で員外教授となっていたシュミットだが、ナチスに批判的だったため、1938年のドイツ=お=ストリあ併合に伴いスイスへ亡命。フリブール市近郊のフロワドヴィルで研究を再開し、フリブール大学正教授として民族学を講じた。1952年にはウィーン開催の第4回国際人類学・民族学会議で名誉会長を務めたが、2年後の54年、次第に強まる自説への批判および同僚の間で深まる孤立の中85年の生涯を終えた。彼は神父として一生独身であった。

ドイツ語圏民族学の系譜

 18世紀末のゲッティンゲン大学において民族誌民族学という概念が生まれた後、世界各地から様々な民族についての報告が蓄積されたのを受けて、19世紀半ばになるとテーマごとあるいは地域ごとの集成が現れるようになった。アードルフ・バステアーン『世界の中の人間』全3巻(1860)とテオドール・ヴァイツ『自然民族の人類学』全6巻(1859〜72)がその代表であり、アドワード・タイラーは『原始文化』(1871)序文において、「特に利用した専著2点」として両者に言及している。

 「民族学の父」と称されるバスティアーンはベルリン民族学博物館の創設者、ベルリン民族学会設立者の1人、そして機関誌『民族学雑誌』創刊者の1人であり、「原質思念」という概念を提唱した。これは、人間の心理は基本的に同一であって、世界各地に見られる類似の現象や文化要素の存在はこの同一性に基礎をおき、同様な進化の道筋を辿った結果である、という考え方である。進化論の1つの理論的根拠として歓迎され、ドイツ語圏では20世紀初めまで影響力を保った。

 しかし20世紀初頭からこれへの反動もあって、歴史上の伝播の方をより重視する伝播主義が起こってくる。そうした中でフリッツ・グレープナーから「文化圏」概念を受容して発展させ、「文化圏説」「文化史学派」と呼ばれる一大学派をウィーンで形成したのがシュミットだ。

 他方、レオ・フロべニウスが開始した「文化形態学」はこれとやや性格を異にする。彼によれば文化とは、生成・発展・変容・衰退といったプロセスを有機的に経ながら形態を転々としてゆくような実体であり、個々の人間はそうした文化の遂げる運命の中で生きる存在に過ぎない。そして文化が人間に対して働きかける教育力・馴化力(ないしは文化の魂)のごときものを、彼はギリシャ語をもとに「パイドイマ(Paideuma)」と呼んだ。これと同名の雑誌『パイドイマ』(1938年創刊)は、フランクフルト大学の文化形態学研究所におけるフロべニウスの後継者アードルフ・E・イェンゼンを経て、現在も刊行され続けている。

 ドイツ語圏民族学ではこれらの他、ヘルマン・バウマンらの「世俗的」な文化史研究、リヒャルト・トゥルンヴァルトらの機能主義といった別個の潮流も存在したが、シュミットらの文化圏説とフロべニウスらの文化形態学とが、第二次大戦前における二大学派をなしていた。しかしナチス政権下において、民族学は他の学問分野以上の変容を余儀なくされた。先述の通りシュミットらはスイスへ亡命し、文化形態学のイェンゼンらは周縁に追いやられ、エリック・ウルフなどに見られるように頭脳流出も激しかった一方、ナチスへの協力者も続出した。このため戦後の民族学は再出発に時間を要しただけでなく、今なお過去のトラウマに対し自省的にならざるをえない状況にある。

シュミットの原始一神教

 さてシュミット理論たちに戻そう。彼の原始一神教説とは、人類史上最古段階においてすでに唯一の至高存在すなわち神による啓示と、その神への信仰が存在していた、という説である。これが出てきた背景には、19世紀後半における進化論の隆盛があった。進化論では神による人類創造を否定し、タイラーは霊魂信仰(アニミズム)から多神教を経て一神教へという宗教の進化図式を描いた。またヨーロッパ諸国では知識人たちがキリスト教に懐疑の目を向けはじめ、社会の世俗化が進んだ。

 これはとりわけ、カトリック側にとって由々しき事態であった。敬虔なカトリック家庭で育ち、しかも一神父として護教的義務感も強かったシュミットがこの説を学問的に実証しようとしたのは、ある意味自然な成り行きであった。しかし本来、原始一神教説はシュミットの独創ではない。もとはタイラーを批判した英国のアンドルー・ラングが提出したアイディアを、シュミットは間接的に受容したのである。

 まずシュミットは1908〜10年の『アントロポス』誌に論文「神観念の起源」をフランス語で発表した。これは当時フランスの方が反教会的機運の高まりを見せていたため、速やかに対抗言説を出さなければ、という危惧の現れであった。また1910年には『人類発展史におけるピグミー諸民族の位置』を出版、低身長の諸民族こそ人類の最古段階を体現していると考え、その調査へと同僚の神言会神父たちを送り出してゆく。すなわち高弟でかつ協力者ともなるヴィルヘルム・コッパースを南米のフエゴ島へ、パウル・シェベスタをマレー半島やフィリピンのいわゆるネグリート系諸族および中央アフリカのピグミー系諸族のもとへ、そしてマルティン・グジンデをフエゴ島およびコンゴのピグミー諸族へ派遣し、浩瀚な調査記録を刊行させることとなる。

 こうした資料の増加とともに、シュミットの主著『神観念の起源』全12巻が着々と上梓されていった。1912年に初版が出た第1巻は従来の民族学における宗教研究を批判的に検討しており、その改訂第2版は1926年に出版された。続く第2〜6巻(1929〜35年)はアメリカ大陸・アジア・オーストラリア・アフリカの「原民族」つまり狩猟採集民を扱っており、残る第7〜12巻(1940〜54年)はアフリカ・アジアの牧畜民をテーマとする。合計1万頁を超える大著である。

 シュミットの生前から、彼の原始一神教説には批判が多かった。例えばラドクリフ=ブラウンはアンダマン島民の神観念について、シュミットの偏見を指摘した。またイタリアの宗教史学者ラッファエーレ・ペッタッツォー二も、真の一神教多神教への反発として宗教改革者により形成されてきたと述べ、シュミットと論争を繰り広げた。

文化圏体系の展開と崩壊

 文化圏とは、長期間にわたり安定し、かつ内容の大きな変化を伴うことなく移動しうるような諸文化要素の複合である。このため世界各地に似たような文化圏を見いだすことができるとされ、この文化圏を時間軸で把握したものが文化層と呼ばれる。このように文化圏というアイディアそのものは、北米人類学においてフランツ・ボアズ門下のクラーク・ウィスラーが出した「文化領域」と類似する面もある。しかしドイツ語圏ではまずグレープナーがこれを理論化し、シュミットが独自の体系を作りあげた。

 その際、グレープナーと並んでシュミットに強い影響を与えたのは、エルンスト・グローセであった。すなわちグローセによれば、人類の経済形態は低級狩猟民、高級狩猟民、牧畜民、低級農耕民、高級農耕民の5つに分類できるという。シュミットはこうした経済形態と社会組織、さらに語族というほぼ3つの指標を用いながら、文化圏体系を構想した。その体系には、発表された年次によりかなりの揺れや変更が見られるが、要するに経済形態や社会組織および言語のほか物質文化や宗教も包括し、かつ世界大的な規模で人類史を再構成しようという試みであった。しかし過度の図式化傾向を避けることができなかったため、次第に批判の声が強くなり、その死とともに事実上崩壊したのである。

日本への影響

 とはいえ1930年代のウィーンは、シュミットをれいしゅうとするその学派がもっとも輝いていた時期だった。そのためウィーンで学ぶなどとして大きな影響を受けた日本人研究者も少なくない。まず岡正雄は1929年からウィーンに留学し、シュミットらに師事して『古日本の文化層』という博士論文により学位を得、1935年に帰国した。そして同年にはシュミットを日本への講演旅行に招いた。なお岡と時を同じくして、米国のクライド・クラックホーンなどもウィーンに留学していた。

 岡の勧めを受けた石田英一郎は1937〜39年にウィーンで学び、やはり文化史的民族学への志向性も抱きつつ、戦後は東京大学で総合人類学を発展させた。さらに神言会士でもあった沼沢喜市は学においてシュミットの指導を受け、ここで博士号を得て帰国後、南山大学で教鞭を執った。

 他に、シュミットから直接の教えは受けていないがウィーンに留学・滞在して間接的な影響を受けた日本人として、大林太良と白鳥芳郎などを挙げることができ、またシュミットの歴史民族学・宗教民族学を受容した研究者には、宇野円空や棚瀬襄爾らがいる。

用語解説

原質思念(Elementargedanke) 人類の心理は基本的に同一で、世界各地に見られる類似の現象や文化要素の存在はこの同一性に基礎をおき、同様な進化の道筋を辿った結果である、という考え方でバステアーンが提唱。心理学者カール・G・ユングの「元型(Archetyp)」概念などもここから1つのヒントを得ている。

原始一神教説(Urmonotheismus) 人類史上最古段階においてすでに唯一の至高存在すなわち神による啓示と、その神への信仰が存在していた、という説。進化論および世俗化という時代的背景に対するカトリック側からの反応として、護教的・神学的に提出された学説である。

文化圏(Kulturkreis) 長期間にわたり安定し、かつ内容の大きな変化を伴うことなく移動シウルような諸文化要素の複合。

文化形態学(Kulturmorphologie) 文化とは、生成・発展・変容・衰退といったプロセスを有機的に経ながら形態を転々としてゆくような実体であり、個々の人間はそうした文化の遂げる運命の中で生きる存在にすぎない、という発想に基づく一学派で、風呂べニウスやイェンゼンが主導した。