初めて学ぶ文化人類学(2)ーエドワード・バーネット・タイラー

このブログはミネルヴァ書房の「はじめて学ぶ文化人類学」からとっている。

本章の著者は 竹沢尚一郎 です。

 

エドワード・バーネット・タイラー

(Edward Burnett Tylor :1832-1917)

若きタイラーと人類学の誕生

 タイラーは、アメリカのルイス・H・モーガンとともに近代人類学の祖として、とりわけ進化論人類学の祖として知られている。アメリカ先住民のもとで研究したモーガンが技術と社会制度の進化に関心を寄せたのに対し、タイラーの功績は宗教研究の領域で際立っている。彼が作ったアニミズム類感呪術、交叉イトコ婚、テクノニミーなどの分析概念は今でも有効性をもち、人類学の基礎概念の一部となっている。キャリアの面でも、彼は1884年にオックスフォード大学の准教授(reader)として迎えられ、1896年から教授として世界で初めて人類学の専門教育を行うなど、人類学が大学制度の中に位置づけられる上で大きく貢献した。人類学という学問はタイラーとともに始まったと言っても過言でない。

 タイラーは1832年にロンドンで生まれ、フランスの社会学エミール・デュルケームと同じ1917年に85年の生涯を終えている。裕福なクエーカー教徒の両親のもとに生まれた子どもであった。タイラーの学問的背景を考える上で、産業革命の中心というべき英国のロンドンで青年期を迎えたことと、クエーカー教徒の家庭に生まれたことが大きな意味をもっている。

 1851年、タイラーは世界最初のロンドン万国博覧会に出かけている。開会式ではアルバート公が次のようにその意義を宣言した。「全人類が現在までに到達した発展の度合いを正直に問いかけ、その真の姿を描きだすこと」。万国博は産業革命が生んだ機械類を展示することで、人類の未来像を具現化しようとした。と同時にそれは、大英帝国の各地から集められた品々を展示することで、未開から文明に至る人類の発達を示そうとした。タイラーの人類学が不合理なほど進化にこだわった理由は、そうした時代背景にあったのだ。

 劣らず重要であったのがクエーカー教徒の家に生まれたことであった。保守的な英国国教会に対し、17世紀に誕生したクエーカーは進歩的であった。奴隷貿易に反対して奴隷制の廃止に導いたのはクエーカー教徒であったし、当時は英国国教会にのみ開かれていたオックスフォード大学やケンブリッジ大学への進学を拒まれたタイラーが、世界各地を訪れることで見聞を広めたのもそれが理由であった。彼が1854年のメキシコ旅行の途中で、やはりクエーカー教徒のヘンリー・クリスティ(のちのピット・リヴァース)と意気投合し、4ヶ月にわたって考古学と民族学の調査をしたのも偶然ではなかったのである。

 タイラーのメキシコ旅行からは、最初の著作である『アナワクーー古代と現代のメキシコとメキシコ人』(1861)が生まれている。それは、メキシコの古代文明や遺跡の描写から、刑務所、闘鶏、労働条件の記述までを含む一種の民族誌であったが、彼がクリスティについて書いている最初のページと、それへの英国人類学者ゴッドフリー・リーンハートの解説は、そのまま引用に値する「『1856年の春、私はハバナ乗合馬車で偶然クリスティ氏に会った。彼は何ヶ月も前からキューバに滞在し波瀾に富んだ生活を送っていた。砂糖のプランテーション、銅鉱山、コーヒーのエステイトを訪れ、洞窟を探検し、熱帯密林で植物を採集し、……奴隷商人や暗殺者まで、あらゆる種類の人たちを訪ねていた』イギリス人類学の父タイラーには、人類学者が時おり「謹厳な」諸科学の研究者によって軽蔑されるロマンチックな気風がむきだしになっている。なにしろキューバ乗合馬車から誕生したのも同然の学問であるから、多少ちぐはぐな面が会っても仕方ないだろう。しかしタイラーの文章には様々なじかの経験を重視する価値が含まれている。この価値が、彼の後継者たちを特徴づける現地調査に駆りたてたのだ」(リーンハート「エドワード・タイラー」)。

 生涯をアームチャーの人類学者として送ったタイラーは、のちにマリノフスキーが確立する厳密な意味でのフィールドワークを実施したことはなかった。しかし、数年間アメリカ大陸を旅行して様々な人々や文化に出会ったことが、彼にリーンハートの言う「じかの経験を重視する価値」を与えた。タイラーは、タスマニア島の皮はぎ器を手に入れると近所の肉屋で試させたし、女たちが杼をあやつって布を織るのを眺め、オーストラリア・アボリジニの身振り言語を理解するために聾唖学校に通うなど、英国にいながら多様な文化を学ぶことを厭わなかった。19世紀の英国には、法人類学のヘンリー・メイン、比較神話学のマックス・ミューラー、「略奪婚」のジョン・マクレナンなど、人類学に関心をもつ多彩な人材がいた。その中でタイラーだけが今日まで評価されているのは、彼の「じかの経験」を重視するある種のセンスと、それが可能にした射程の短い理論への嗜好によっていたに違いなかった。

文化を定義する

 メキシコ旅行で異国の慣習に関心をもったタイラーは、帰国後研究に邁進する。サンスクリットや欧米の言語を修めると同時に、当時「未開」と呼ばれていた世界各地の民族誌データの収集と分析に着手したのである。1865年に『人類の初期の歴史と文明発展に関する研究』を出版した彼は、1871年に全2巻、計1000ページに達する主著『原始文化』を出版した。

 人類学史の観点から見たこの本の功績は、何にもまして、冒頭で「文化」について明確な定義を行ったことである(以下、引用は『原始文化』による)。

 「文明ないし文化とは、民族誌的な広い意味に置いて、知識、信仰、芸術、倫理、法、慣習その他、社会の一員としての人間によって獲得される能力と習慣のあの複雑な総体である」。

 これが今日でもしばしば引用される「文化」の定義である。しかし、タイラーのこの定義と、のちの時代のそれとの間には差異と類似が存在することに留意したい。タイラーは「文化」を、「知識、信仰、芸術、倫理、法、慣習その他、社会の一員としての人間によって獲得される能力と習慣の複雑な総体」と定義しており、これは文化の総体的な理解として長く評価されてきた点である。反面、タイラーは文化と文明を区別せず、しかも社会や人種は常に複数形で用いたのに対し、文化や文明を複数形で用いたことはなかったそれは彼が、世界中の民族のもとで文化の差異があることを認めながらも、それを文明の進化の異なる段階に位置づけていたためであった。

 タイラーは、「人間の歴史は自然の歴史の一部であって、われわれの思考や意志や行動が一致する法則は、波動や酸と塩基の結合や植物と動物の成長を支配する法則と同じくらい決定的だ」と断言する。自然科学が優越した19世紀らしい発言だが、そうした自然科学の前提を人間の理解にもち込むと批判を招きかねないことを彼は理解していた。そのため、人類の文化の普遍性という彼の基本テーゼを証明するべく、世界中の文化の差異を集め、それを単一の発展図式の中に位置づけようとしたのである。

 「ヨーロッパとアメリカの教養世界は基準として社会の諸系列の一方の端を占めており、他方の端を占める野蛮な諸部族とのあいだに、教養生活と野蛮のいずれに近いかに応じて人類の残りが割り当てられる。……文化の序列において、オーストラリア人、タヒチ人、アズテカ人、中国人、イタリア人を、この順に並べることに意義を唱えるものはほとんどいないであろう」。今日のわれわれから見れば偏見に満ちた主張であり、彼の著作に対する批判の多くはこの文化進化に関するものである。しかし、それをタイラーの時代のコンテキストに置くなら、必ずしも無意味な議論ではなかった。当時のイギリスでは、ダーヴィンが1859年に発表した生物進化論は英国国教会から激しい批判を招いていた。それに対し、儀礼と宗教の単線的な進化を説いたタイラーの『原始文化』の出版は、進化論陣営にとっては格好の援護であった。とりわけダーヴィンはその出版を喜び、タイラーに手紙を送って賞賛したと言われている。

タイラーとフレイザー

 タイラーの著作が人類学の発展に果たした貢献は極めて大きなものがあった。当時のロンドンの人類学界では、フランスの脳医学者ポール・ブロカの影響下に「ロンドン人類学協会」が1863年に設立され、その勢力は科学団体としては英国一と言われるほどであった。その主張は、人類は起源の異なる複数の人種からなり、それゆえ人種間の知的能力には絶対的格差があるとする人種主義的な教説であり、その単純さと決定論が人気を呼んでいた。反面、それは人類学を人種差別のイデオロギーにまで切り下げる危険性をもっていた。そのためタイラーは進化について次のように主張したのである。「現在の目的のためには、人種の遺伝的偏差を考慮しないこと、人類をその本質においては同一だが、文明の異なる段階にあるものと見なすことは、可能だしまた望ましい」。

 タイラーが言うように人類が同一の本質をもつとすれば、ある集団が「未開」の状態にあるからといって、彼らを奴隷の地位にとどめたり、その存在を否定したりすることは許されない。彼が西洋文明を人類進化の頂点におく自民族中心主義の立場に立っていたのは否定できないが、他面で、「未開」や「野蛮」と呼ばれる人々のもとでも文明の存在を認め、宗教の存在を認めている点で、当時としてはヒューマンニスティックな側面をもっていたのである。

 世界中の民族の様々な儀礼や宗教的慣行を集めたタイラーは、分析のために2つの概念を導入した。「アニミズム」と「残存」である。彼はアニミズムを人類の原初的な宗教形態と考えたが、その理由は次のところにあった。人間は夢や憑依、生と死など、理解困難な経験にとり囲まれている。そこで「未開の思想家」が、人間のうちに霊魂が存在しなければこれらの現象は解釈できないと考え、霊魂の存在を想定した。そこから万物にも霊魂が宿っていると言うアニミズムが発生したのであり、宗教の原初形態としてのアニミズムから、多神教、ついで一神教へと人間の宗教は進化してきたと主張したのである。

 タイラーが考えたように、全ての文化が共通の特徴から出発したとすれば、一神教の世界にもアニミズムの要素は存在するはずである。そこでタイラーは、そうした基層文化の要素は高度な文明によって抑圧されたり変形されたりしながら、迷信や俗信の形で「残存」すると考えた。かくして彼の『原始文化』は、彼が未開と考えた諸社会では現在も観察され、西洋文明では俗信の形で存在する慣行や習俗を集めた一種の一覧表になったのである。

 タイラーが一種の一覧表の作成を目指したのに対し、西洋社会に伝えられる伝承や習俗を未開社会のそれと比較することで、断片的にのみ知られる古代の文化形態を再構成しようとしたのが、古典学から出発したジェイムズ・G・フレイザーであった。主著である『金枝編』(1911)で彼は、イタリアのネミにある湖にまつわる伝承から出発する。この湖のほとりには1本の黄金の木があり、昼も夜も「森の王」によって保護されている。新しく王になることを望むものは、この木の「金枝」を手にして先王を殺さなくてはならないという。

 この伝承の謎を解くために、フレイザーは世界中の樹木崇拝や王殺しの慣行を辿っていく。王殺しの慣行とは、例えば植民地期の人類学者の報告によれば、アフリカの王の多くは国土全体の繁栄と豊穣をつかさどる存在と考えられていたため、病気になったり衰弱したりした時には、そうした弱さが国土に感染することを防ぐべく殺されたり自死を選んだりしたという。ここに見られるのは「呪術師としての王」という観念であり、こうした事象を参照することで初めて先の伝承の意味が解明されるというのである。

 フレイザーのこの書は見事な文体で書かれたこともあり、世界中で読まれ、我が国の民俗学創始者である柳田国男にも大きな影響を与えたことが知られている。ただ、今日の人類学の観点から言えば、フレイザーは古典学者ないし文学者であり、人類学者とは見なされていない。それに対し、人類学の祖としての評価が与えられ続けているのはタイラーなのである。

 『原始文化』を出版した彼は、英国の学会組織の頂点に位置する王立協会員に選ばれ、1883年にオックスフォード大学博物館の主任学芸員、84年に同大学准教授、96年に教授になることで、世界で初めて文化人類学の再生産体制を確立した。また彼は王立人類学会の会長を2度つとめ、人類学の普及のために海外に出かける宣教師や軍人に宛てた手引書をつくり、1894年から行われるフランツ・ボアズのカナダ北西海岸での調査を支援するなど、まさに「英国人類学の父」としての名声をほしいままにしたのである。

用語解説

進化論人類学 すべての存在は単純から複雑へと発展してきたとする進化論に基づいて、人間が作り出した宗教や社会、技術も未開から文明へと進化してきたとする考え方。

アニミズム 人間や動物をはじめ、植物や天体などの万物に霊魂が宿っているとする考え方のこと。タイラーはこれを宗教のもっとも原初な形態と考えた。