はじめて学ぶ文化人類学(4)ーフランツ・ボアズ

このブログはミネルヴァ書房『はじめて学ぶ文化人類学』からとっています。

本章の作者は 太田好信 です。

 

(Franz Boas:1858-1942)

 

アメリカ人類学の祖

 フランツ・ボアズは、ドイツからアメリカ合衆国へ移住、自然ジル医学、考古学、言語学文化人類学の4分野を統合した人類学を構想、それを大学において制度化した人物である。彼は当時支配的であった人種と文化との統一視により、人間社会の多様性を序列化する立場を批判、文化を歴史構成的、相対的、統合的総体として捉える20世紀のアメリカ人類学の礎を築いた。

 今述べた特徴をもつ文化概念をより精緻にしたのはボアズ自身ではなく、彼の薫陶を受けた人類学者たち、例えばマーガレット・ミード、ルース・ベネディクトであった。後に、デイヴィッド・シュナイダーやクリフォード・ギアツらも、ボアズが道を開いた文化概念を鍛えあげた結果、自らの人類学的分析を作り出したといえる。

 また、ボアズが繰り返しフィールドワークを行ったのはカナダ(ブリティッシュ・コロンビア州)北西海岸地域である。それらの調査において、彼は現地研究協力者に依存した。中にも、もっとも有名な人物はジョージ・ハントである。ハントとともに残したクワクワカワクゥに関する民族誌資料は膨大な量にのぼり、現在でもカナダ国内の先住民文化復興に寄与する大切な遺産となっている。

ドイツ、そしてアメリカ合衆国

 ボアズは、ドイツ・ミンデン市の富裕なユダヤ人商人の子として生まれた。彼の少年時代の愛読書の1つは『ロビンソン・クルーソー』であり、すでに異国への憧憬を抱いていたと改装している。ハイデルベルク大学からボン大学へと移籍、1882年にキール大学から物理学の博士号を取得した。しかし、彼の関心は客観的世界そのものよりも、それと主観との関係にあった。

 博士課程修了後、定職が彼を待っていたわけではなかった。ようやく、ボアズはアードルフ・バスティアーンの助手としてベルリン民族学博物館で働く機会を得る。そこで働くうちに、ボアズは環境の季節的変更とイヌイットの移動パターンとの関係解明をテーマに、ドイツの極地探検に参加する僥倖に恵まれる。1883〜84の1年間、カナダ・バッフィン島東岸のイヌイットの素でフィールドワークをした。

 ドイツに戻ったボアズは、ベルリン民族学博物館で収蔵品のカタログ作者の仕事に復帰する。収蔵品の中には、ノルウェー人探検家ヨハン・A・ヤコブゼンがカナダ北西海岸地域から集めた仮面が含まれており、ボアズはその仮面に魅了された。1886年、私財を投じて、バスティアーンのために仮面を収集するという名目野本、ボアズは自分を虜にした仮面が生まれた場所、バンクーバー島へと向かった。

 ボアズは、合計13回ほど繰り返しカナダ北西海岸地域を訪問している。1888年6月、白人貿易商の父とトリンギット人の母との間に生まれ、すでにクワクワカワクゥ社会において重要な地位を占めていたジョージ・ハントに、ボアズは初めて出会う。彼との出会いを境に、ボアズの調査スタイルは大きく変化する。一方において、ボアズはハントに依存するようになり、他方において、ハントは調査の援助だけではなく、1人の研究者としてボアズの理論形成に影響を与えるようになった。

 ボアズの不安定な職を転々とする生活は、やがて終わりを迎える。ニューヨーク市の自然史博物館でのキュレイターの仕事を獲得し、1889年、コロンビア大学に人類学ぶを創設するが、これは好事家の趣味ではなく、プロの人類学者を養成する場所ができあがったことを意味した。

 さらに、ニューヨーク市での生活は、ボアズとアフリカ系アメリカの知識人や芸術家との交流を促した。1920年代、「ハーレム・ルネサンス」と言われる黒人芸術活動の中でもボアズの著作は頻繁に引用された。彼が指導した黒人ゾラ・N・ハーストンは、その運動の中心的人物の1人となった。

 ボアズの弟子たちは愛情を込めて、「パパ・フランツ」とボアズを呼んでいた。コロンビア大学人類学部は、当時白人男性が多数を占めていたアメリカ合衆国の諸大学において、北米先住民、ユダヤ人、女性、黒人、1.5世代と言われる移民の子供たち、外国人たちが気兼ねなく学べる数少ない場所であった。

 ボアズは、84歳で亡くなる。彼の研究生活は長く、その研究テーマも多岐に弥。研究の功罪を含め、「ボアズ研究」というジャンルすら成立しそうである。本章では、ボアズの示した文化概念を素描し、民族誌資料の新たな読解可能性を簡述することにとどめる。

文化概念の基礎理論

 ボアズが人類学を大学組織内部に制度化した功績を疑うものはいない。しかし彼の学問的業績をどう評価するかは別である。1949年、ジョージ・P・マードックは、「ボアズは弟子たちにより過大評価されており、彼は理論家として全く体系だった思考ができていないし、フィールドワーカーとしてもたいしたことはない」と、ボアズの仕事を酷評している。50年代にはレスリー・ホワイトも、同じ理由でボアズの仕事を厳しく批判した。第二次世界大戦後、アメリカ合衆国の社会科学全体が自然科学をモデルとし、一般化や法則を追求しようという方向に向かう中、ボアズのように一般化を嫌い、個別事例の集積と帰納法固執する学者に対する評価は低かった。

 そのような状況を一変させたのは、1960〜70年代にかけて歴史家ジョージ・ストッキングが行ったボアズの仕事を再評価する一連の読解である。ストッキングは、アメリカ合衆国における人類学の最大の特徴とも言える文化概念は、ボアズなしには成立しなかったと結論づけた。

 ストッキングによる読解の骨子は、次のようなものである。19世紀末に近い頃、ボアズの論敵は何人か存在したが、中でもオーディス・メイソンが最大の標的であった。メイソンは、人種と文化との違いを述べ、人間の行動を規定するのは人種ではなく文化であると主張した。文化は人間のもつ多様性の表現であり、それらに優劣をつけることはできず、ハイアラキーには収斂されないという。1911年、ボアズは主著の1冊『未開人の精神』でも、今述べた議論を展開している。

 しかし、人種論への批判以上にストッキングが重要視したのは、ボアズの「変化する音」(1889)という論文であった。当時、「未開言語」の特徴はサウンドブラインドネス(sound-blindness)にあると言われていた。それは、ある言語の母語話者たちの中には、正確な音の認識ができないものがいることをさしていた。特に、イヌイット語話者の中にそのような特徴が報告されていた。

 ボアズは、この結論を否定する。言語学者たちは自らが母語として体得した言語にある音(音素)として、イヌイット語話者の発音を聞き取っていたため、このような結論を導き出したに過ぎないという。ボアズの主張は、知覚とは媒介を通して認識されるから、それは統覚であるという言葉に要約される。

 ストッキングによれば、1970年以降、多くの文化人類学者の間では文化を物質文化や行動パターンそのものではなく、媒介として行動に意味を付与するコード体系として理解すようになっていたのである。

民族誌における共同作業

 ボアズを魅了したカナダ北西海岸地域の諸社会は、すでに天然痘の大流行により、人口が激減していた。それだけではなく、キリスト教ミッションとカナダ総督府はポトラッチの実施を弾圧、禁止した。ボアズはこのような歴史的変化を問題視しないまま、彼の眼前で不可避に消えゆく社会を記録するという立場をとった。

 ボアズの歴史性への無配慮に対して、彼のフィールドワークを援助していたハントは、ボアズとは異なった緊迫性を自らの仕事に感じていたに違いない。ボアズの関心がモノから思想(歌、神話や物語など)へと移行すると、ボアズはハントに自らが考案したアルファベットによる表記法を教え、ハントに冬の祝祭の中心であるポトラッチにまつわる民俗資料の収集を依頼する。しかも、ボアズが不在の時も、ハントが「ここに保存する本(Keeping Here Books)」と呼ぶ黒いノートに、ハントはクワクワカワクゥ社会の生活を詳細に記録していた。ハントは自ら収集した現地語により記載された資料に英語訳を付し、それらの分量はボアズの研究室の棚、「約1.5メートル」を占有するほどであった。

 ボアズとハントとの関係を、人類学者と助手、あるいは研究協力者との関係だと言い切れるのだろうか。確かに、多くの場合、ボアズはハントの名前を共著者として明記し、記録をのしている。ボアズは民族誌的権威を分散していたともいえる。しかし、今述べたこと以上に、ハントは、クワクワカワクゥの人々が近代のもたらした苦境を生きのびるために、ボアズに何かを託していたのではなかろうか。この疑問は、先住民たちのエイジェンシーに関わる。この問いは、先住民は近代の犠牲者に過ぎないのではなく、近代がもたらした災禍を生き抜くための戦略をもち、歴史の主体になろうとしていた、というしてんの転換から生まれる。

ハントがボアズに託した未来

 21世紀において、先住民の研究者たちは、ストッキングの解釈は異なった視点から、ボアズの仕事を復活させている。例えば、ボアズがハントとともに残した資料は、現地の文化復興に寄与する可能性を通し、世界に向けて先住民たちが近代の一員として生き抜いてきた歴史を証明するだけでなく、未来に向けて西洋文明に対し新たな価値を提示してもいるという。

 そのような未来に向けた世界史は、差異によって導き出される対立よりも、ポトラッチのように、多くの異なった社会の人々が参加することにより結びつく、多様性によって特徴づけられるとすれば、それはボアズのヴィジョンとも合致するだろう。そう主張したい理由は、ボアズは『未開人の精神』において次のように記しているからである。「外から影響を被っていない民族はいない。どの民族も近隣の民族から発明やアイディアをそのまま斜陽し、ときには同化吸収している」と。

 21世紀、私たちは対立や紛争の原因には差異を過度に強調する世界観の蔓延があると疑うようになった。そんな時代だからこそ、未来を想像するキーワードとしてグローバル化を世界の連結を含意する概念として捉え直し、多様性が差異とは異なった価値として示されてきたのである。先住民の研究者たちは、ハントが交換、互酬性、そして変容を通して連結する世界という価値観をボアズに託したと述べている。先住民的視点から示されたこの斬新な解釈に従えば、ボアズは世界に対するギフトとして先住民の価値観を伝えた人なのである。

用語解釈

統覚(apperception) 認知とは、知覚システムの媒介があり初めて成立する。例えば、一言語には明確に区別される音が、その言語を初めて学ぶものにとり、自らが慣れ親しんだ言語にその音がなければ、それを聞き取ることが困難である。

ポトラッチ(potlatch) カナダ北西海岸地域の先住民による儀礼。統治形態であるという解釈もある。ホストが招待者たちに膨大な量のギフトを分配する祝祭を伴い、1884年に法律で禁じられるが、1950年代にはその法律は無効となった。

文化人类学入门(3)- 威廉・施密特

此文译自ミネルヴァ書房出版的<はじめて学ぶ文化人類学>

本篇的作者是 山田仁史

 

Wilhelm Schmidt1868-1954

 

施密特在今天

    谈到施密特,我们首先联想到他提出的原始一神教和文化圈这两个概念,这些概念使他留名学史。

    施密特的学说不止在德语圈的民族学史(相当于美国的文化人类学或英国的社会人类学,只是名称不同)上占有重要地位,在他生前,其学说就在包括日本的国际社会上享有盛誉。这从他曾担任1952年在维也纳召开的国际人类学、民族学会议的名誉会长就可以看出。

    接下来,我将简单介绍施密特的生平经历,他的学说在德语圈学界内的定位,再简单解说他的学说中的代表性概念——原始一神教说,文化圈、文化层,最后介绍他对日本研究者的影响。

施密特的生平

    1868年,威廉・施密特诞生于德国西北部的北威州近郊的一个工人阶级家庭。他2岁时父亲去世,据说他一生都极敬慕他的母亲。15岁时,他加入了本部位于荷兰的天主教教士会“神言会”。在神言会学习结业以后,于1892继任了神言会修士。翌年,施密特前往柏林大学进行了为期3学期(将近1年半)的东方语言的学习。除此以外的施密特的学识都来自自学。

    18951938年,施密特在奥地利维也纳近郊的圣加百列修道院授课并进行研究活动。同时,他也进行着为圣歌队谱曲,指挥,演奏管风琴,面向群众讲说教义等等宗教活动。

    施密特的研究从语言学出发,在对东南亚、大洋洲、澳大利亚各种语言的分类做出显著的贡献之后,他的研究重点逐渐转移至民族学1906年他创立了民族学、语言学的国际专门杂志《人类(Anthropos)》,不仅担任第一任总编,自己也在该杂志上发表了大量论文和书评。第一次世界大战时,他担任了奥匈帝国末代皇帝卡尔1世的顾问和听罪师。1920年代在罗马教宗庇护11世之下在梵蒂冈创建了拉特朗博物馆,并担任第一任馆长。

    1924年,施密特受聘于维也纳大学的员外教授。他对纳粹持批判态度,在1938年德国与奥地利合并时逃往瑞士,在弗里堡近郊的弗鲁瓦德维尔再次开始研究活动,任弗里堡大学教授,讲授民族学1952年,他担任了在维也纳举办的第4次国际人类学、民族学会议名誉会长,2年后,学界对其学说的批判声越演越烈,他孤立无援地结束了他长达85岁的一生。作为神父,他一生没有娶妻。

语圈民族学的系谱

    18纪末民族志和民族学的概念诞生于哥廷根大学以来,对位于世界各地的多种多样的民族的资料逐渐积累,到了19纪中期,德语圈各地都出现了集大成的著作。阿道夫·巴斯蒂安的《人在历史中》3卷(1860)和特奥多尔·韦兹的《自然民族的人类学》6卷(185972)是其中代表。爱德华·伯内特·泰勒的《原始文化》1871)的序文中就提到特别参考了这两部专著。

    阿道夫·巴斯蒂安被称为“民族学之父”,同时他也是柏林民族学博物馆的创建者,官方杂志<民族学杂志>创刊者之一。“基本概念”(elementargedanken)也是由他提出的。“基本概念”认为,人类的心理活动究其本质是一样的,存在于世界各地的相互类似的现象和文化源于人类心理本质的同一性,是各地人类沿着同样的路程进化的结果。这个概念成为进化论人类学的一个理论依据,在德语圈直到20纪初仍有不小的影响力。

    20纪初,在对“基本概念”思潮的批判的大流中,重视文化的传播的传播主义兴起。施密特作为传播主义的一份子,继承发展了由弗里兹·格雷布纳提出的“文化圈”的概念,创建了被称为“文化圈说”或“文化史学派”的一大学派。

    始自里奥·弗罗贝纽斯的“文化形态学”则和上述学派稍有不同。他们的学说称,文化是一个有机的实体,在生成、发展、转变、衰退的四个状态之间循环变化;人类个体生存于文化循环往复的大流之中。他们称文化对人类个体所起的教育、驯化的作用(或文化的灵魂)为“Paideuma”。同名杂志《Paideuma》1938创刊)经法兰克福大学文化形态研究所的罗贝纽斯的后任阿道尔夫·詹森之手后,直到今天仍在刊行。

    除已经提到的之外,德语圈民族学还包括赫尔曼·鲍曼的世俗文化史研究,里查德·涂恩瓦提出的功能主义等多个学派。施密特的文化圈学说和弗罗贝纽斯的文化形态学至第二次世界大战前为德语圈民族学的最大两派。然而在纳粹政权下,民族学被迫做出的改变更甚于其他学科。如上文提到,施密特逃亡瑞士,文化形态学派的詹森等人受到学界排挤,埃里克·沃尔夫等知识分子纷纷逃往国外,而一部分知识分子投靠纳粹。战后,德语圈民族学一段时间后才得以重新展开。直到今日,德语圈民族学仍然保持警惕,避免重蹈覆辙。

施密特的原始一神教

    让我们回到施密特的理论。他的原始一神教学说认为,人类在其上古时代就受到的唯一且至高的存在——神的启示,并信仰着神。这个学说产生的背景在于19纪后半进化论的兴盛。进化论否定人由神造,泰勒的学说认为宗教是由原始的万物有灵信仰进化为看待的一神教,而欧洲各国的知识分子开始把怀疑和批判的目光投向基督教,社会不断的世俗化。

    这对天主教来说无疑是一个打击。施密特生于虔诚的天主教家庭,他自己更是神父,对于证明原始一神教说以维护天主教信仰,他自然义不容辞。不过最初提出原始一神教说的不是施密特,而是英国的安德鲁·朗格。施密特间接的继承了朗格为了驳斥泰勒的进化论人类学而提出的概念。

    190810年,施密特在《人类》发表了法语论文《上帝观念的起源》。之所以用法语,是因为当时法国反教会风潮甚嚣尘上,需要尽快提出反面学说。1910年,施密特出版了《岛语系各民族宗教和神话之比较概要》该著作认为低身高的各民族体现了人类的原初样态。施密特派自己在神言会的同僚前往各地做进一步调查:施密特的徒弟和共同研究者威廉·科珀斯前往位于南美洲的火地岛;保罗·舍贝塔前去调查生活于马来半岛及菲律宾一代的尼格利陀人及生活于非洲中部的俾格米人;马丁·古辛得则负责调查火地岛及刚果一代的俾格米人。这些人各自发表了长篇的调查记录。

    依据这些资料,施密特的主要著作《上帝观念的起源12卷依次出版。1912年初版第1卷从宗教研究的角度批判并考察了当时的民族学研究现状,第2版改订了第1版的内容于1926年出版。第26卷(192935)考察了美、亚州大陆、澳大利亚、非洲的“原住民”即采集狩猎民族;第712卷(194054)年则主要考察了非洲、亚洲的游牧民族。上帝观念的起源12长达1万多页,是一部鸿篇巨著。

    施密特生前面临众多学者对其原始一神教论的批判,例如瑞克里夫-布朗指出施密特对安达曼群岛部族对上帝的观念的认识存在偏见;意大利的宗教史学家拉斐尔·贝塔佐尼提出真正的一神教宗教改革家出于对多神教的批判而创建的,与施密特展开了一系列论战。

文化圈理论的形成和崩坏

    文化圈是可以保持长期稳定,并在地理上移动的各文化要素的综合体。因此世界各地存在类似的文化圈。以时间为主轴把握一系列文化圈则称为文化层。文化圈的概念与法兰兹·鲍亚士门下的克拉克·威斯勒所提出的“文化域”的概念不无相似之处;但在德语圈,类似概念首先由格雷布纳提出,后由施密特进行系统地理论化。

    除了格雷布纳,格罗塞对施密特学说的形成也起了不小的影响。格罗塞把人类社会的经济形态氛围低级狩猎民、高级狩猎民、游牧民、低级农耕民、高级农耕民五个类别。施密特所构想的文化圈理论,包含经济形态、社会组织和语族这三项主要组成部分。自施密特首次发表这个理论翌年,他多次变更了理论内容,但简单讲,文化圈包含社会的经济形态、社会组织、语言、物质文化、宗教等等要素,施密特试图用这些要素重新解读世界史。然而这个理论没能避免过度的刻板化、理论化倾向。对其理论的批判越演越烈。随着施密特的去世,文化圈理论也消亡了。

对日本的影响

    1930年代的维也纳是施密特学派最光鲜的时代。因此其学说对在那个年代留学维也纳的日本人也产生了一定的影响。冈正雄于1929年留学维也纳,师从施密特,发表题为《古日本的文化层》的博士论文后,1935年回到日本,同年邀施密特到日本作讲学。美国的克罗伯与冈正雄同时期留学于维也纳。

    石田英一郎冈正雄的推荐,于193739年留学维也纳。石田英一郎也有志于文化史、民族学,第二次世界大战后在东京大学推广了综合人类学。此外,神言教教士的沼泽喜市留学弗里堡大学,受教于施密特,在弗里堡大学获博士学位后回国,任教于南山大学

    样留学或旅居维也纳,但未直接受教于施密特的日本人还有大林太良和白鸟芳郎等人。另外,宇野圆空、棚濑襄尔等研究者则继承了施密特的历史民族学、宗教民族学学说。

摄食障碍恢复为什么不能只吃“安全食物”

这篇博文翻译自 Tabitha farrar 的博文 Why you cant recover from an eating disorder on your safe food

原文在此: https://tabithafarrar.com/2019/04/cant-recover-anorexia-diet-food/

 

不能只吃安全食物?肯定啊。

但是正在从摄食障碍中“恢复”的我们,却仍然坚持只吃安全的食物。而且大多数情况下,这些食物是以减肥人群为目标设计营销的(当然,吃这些食物并不能减肥。因为任何压抑自然体重的行为都不管用)。

对这一点我算是有心得。有好几年,我尝试只吃安全食物来增重。跟别人说我想方设法增肥,然后去吃一个低卡酸奶。现在看来简直有病,但是在当时的我看来却合情合理。我告诉自己只要吃的够多,只吃安全食物也可以增重。这没错,因为只要身体想要增重,不管你吃什么它都会达到自己的目的。但是摄食障碍恢复不仅仅关乎于体重的增加,还关乎于神经的重构,关于于关掉脑子里的厌食症状态,改掉厌食症习惯,最重要的是通过行动告诉大脑——你没必要吃减肥餐。光吃低卡酸奶是改不了这些毛病的。体重增加和营养状态的恢复也不等价。

不是说只吃减肥食物就不能增重,只要摄入量够多,吃什么都能增肥,但是你不应该这么做。你每一次吃一个有减肥标签的食物,你对“长胖”的负面印象就加重一分;你每一次刻意选择低脂肪的食物,你就剥夺了你的身体所需要的营养;你每一次表现地好像你正在减肥,你就告诉你的大脑你应该减肥。

什么叫“减肥食物”?

所有的所谓“健康食品”,所有的标榜“低脂”或“零脂”的食品。 还有既存食物的“减肥版”。

比如:

  • 蔬菜做的面而不是普通的意面
  • 花菜做的米饭而不是普通的米饭
  • 低脂乳制品
  • 低糖食品
  • 零卡路里的饮料
  • 低卡鹰嘴豆泥
  • 人造甜味
  • 等等等等

为什么不能通过吃更多安全食物增肥呢?

  1. 为这样即使你成功增重,你的神经还是厌食症的状态
  2. 为足量的高热量食物才能说服你饥饿状态的大脑饥荒已经结束
  3. 为只吃那些“安全食物”不能像听任你的身体吃它想要的食物那样让你从营养不良的状态中恢复

我想最合逻辑和最有科学依据的厌食症理论,是厌食症是人类进化的结果,是一种对饥荒的应激反应。携带厌食症基因的人在热量摄取不足的情况下会患厌食症。这是为了迁徙。你的大脑认为你需要迁徙到食物更充足的地方去,而迁徙中的动物的生理机制让它们忽视进食而优先移动,以使迁徙的成功率更高(想阅读更多关于厌食症的迁徙理论的解说,请参照我的书<RecoverRehabilitateRewire>)。

迁徙中的动物不能浪费时间在进食上,因为停下来进食意味着迁徙的进度落后。而进食高热量的食物的机会成本更高,因为这意味着你需要停下来一整天去打猎(古时高热量食物=肉,想吃肉就得出门打猎!)。特别是在打猎成功的概率小的环境(饥荒,食物短缺)下,大脑会减少打猎或摄取高热量食物的动机。迁徙中的动物偏爱那些可以一路走一路吃的热量较低的食物,比如水果和蔬菜。脂肪是几乎只能通过猎取动物而获取的一种营养素。如果为了自己的生存你必须迁徙,你可没空拿着长矛蹲在草丛里等野牛群经过,你得赶紧哪儿远跑哪儿去。

这在今天的厌食症患者身上则体现为对减肥食品和“健康食品”的偏好——低脂食品被认为是健康的。厌食症利用你的核心信念和价值观,所以你可能非常非常固执的只吃几种食物——你的安全食物。其实只要你认真想想,就会发现你的固执完全没有道理。这和道德上是“好”是“坏”类似。对于食物带有非常强烈的感情是不正常的。是厌食症让你有这样的感受。厌食症觉得吃能一边走一边吃的东西才能救你的小命。

为什么脂肪对于摄食障碍恢复至关重要

让我们看看原始人怎么看。食物短缺(饥荒)意味着他必须赶紧找到食物充足的地方(迁徙)或者等着食物再次充足起来(休眠)。

如果他选择迁徙,什么会让他定居下来呢?更多的食物?

但是如果他只找到了更多的蔬菜水果呢?蔬菜水果不能让他长期存活,他是一个肉食者,他需要肉来战斗,来度过寒冷的夜晚,生存下来(注意,那时候可没有那些素食主义超市,也没的卖素食香肠。人类的生存需要蛋白质和脂肪,植物里的含量有限,我们需要吃肉)。所以,即使他找到了一大片草莓,他也不会停下迁徙的脚步。

如果他找到了一片有大量野牛的土地,那么他该定居了,迁徙反应也可以停止了。什么会促使迁徙反应的停止呢?高热量的食物——特别是动物性脂肪——意味着迁徙可以停止了。

找到一片蓝莓就停止迁徙的原始人可能面临死亡。而那些一直等到找到可以狩猎的动物才停止的原始人生存的几率更高,有更高概率把他们的基因传递下去,你自己可能就带有这些基因。

另外,拼命迁徙,终于找到食物之后的正确进食方法,当然是吃一堆!饥荒之后就是大快朵颐。你的大脑让你想吃一堆快餐和冰淇淋(你的厌食症脑强烈反对)是有理由的。你的大脑想要大吃一顿,想要最好消化吸收的卡路里和脂肪,知道它得到它想要的,它都不会相信饥荒已经结束了。它不会接受低卡食物。它知道它不想要低卡冰淇淋。它想要脂肪!减肥版食物不能提供你的大脑需要的东西。减肥版食物不能说服你的大脑饥荒已经结束。

安全食物之所以安全,是因为它们和能采集到的食物相仿,与迁徙不矛盾。可怕的食物之所以可怕,是因为它们代表高热量食物——这些食物需要你出去打猎,而打猎对迁徙可没有帮助。所以我相信为了说服你的原始人脑你不需要迁徙,你必须停止吃的像是在迁徙。你必须吃高热量的食物,吃很多。

这是在恢复期你需要吃可怕的食物的理由之一。

理由之二是神经的重构。只吃安全食物很多年后,你的大脑以为它只能吃安全食物。我们得通过忍住想吃安全食物的欲望,强迫自己尝试包括高热量,高脂肪食物在内的更多种类的食物,来告诉它我们不是只能吃安全食物。

键是要知道,害怕,或者不愿意吃某种食物,是不正常,不健康的(除了田园奶酪,那简直不是人吃的)。你不愿意吃说明你的厌食症脑努力让你不要吃。你得训练你的大脑不要听厌食症的话。怎么做呢?吃你不愿意吃的食物。

只吃安全食物,你不可能完全的从摄食障碍恢复。你必须教会你的大脑,所有食物都是安全的。而教育大脑的唯一的办法,就是吃。

初めて学ぶ文化人類学(3)ーヴィルヘルム・シュミット

このブログはミネルヴァ書房の「はじめて学ぶ文化人類学」からとったものです。

本章の著者は 山田仁史 です。

 

(Wilhelm Schmidt:1868-1954)

 

今日のシュミット

 ヴィルヘルム・シュミットの名は原始一神教や文化圏といった概念と結びついており、これら諸概念はその死後すでに乗り越えられ学史の一コマとなった、というのが今日の一般的な評価である。

 ただしシュミットの学説は、ドイツ語圏民族学ーー社会・文化人類学にほぼ相当ーーの中で1つ重要な位置を占めるのみならず、1952年ウィーンで開かれた国際人類学・民族学会議の名誉会長を務めたことに象徴されるように、その生前における名声は、日本国内も含め国際的に高かった。

 以下ではまずシュミットの生涯を略述し、ドイツ語圏民族学の系譜内に彼の理論を位置付けた後、原始一神教説および文化圏・文化層といったその代表的キーワードを紹介して、最後に彼が日本の研究者たちへ与えた影響について述べたい。

シュミットの生涯

 ヴィルヘルム・シュミットは1868年、ドイツ西北部ヴェストファーレンドルトムント近郊のヘルデにおいて、労働者の家庭に生まれた。2歳で実父を亡くし、母への敬慕を生涯抱き続けたらしい。15歳の時オランダのステイルに本拠を置くカトリック修道会、神言会(Societas Verbi Divini、略称S.V.D.)に入って学業を修めた後、1892年に司祭叙任。翌年からベルリン大学で3セメスター(約1年半)に渡り、オリエント諸言語などを学んだ。このほかはすべて独学である。

 1895〜1938年まで、シュミットはオーストリアのウィーン近郊メートリングにある聖ガブリエル宣教院で教鞭を執り研究に従事するかたわら、聖歌隊のための作曲・指揮・オルガン演奏や一般向け説教など宗教的活動も行った。

 シュミットの研究はまず言語学分野から始まり、東南アジア・オセアニア・オーストラリア諸言語の分類・設定において顕著な業績をあげた後、次第に民族学へシフトした。1906年に民族学言語学の国際的専門誌『アントロポス(Anthropos)』を創刊し、初代編集長そして自らも多くの論文や書評を寄稿している。また第一次大戦期にはオーストリアハンガリー二重帝国最後の皇帝、カール1世の相談役・聴罪師を、1920年代にはローマ教皇ピウス11世のもとバチカンのラテラノ博物館を創設、初代館長を務めた。

 1924年からウィーン大学で員外教授となっていたシュミットだが、ナチスに批判的だったため、1938年のドイツ=お=ストリあ併合に伴いスイスへ亡命。フリブール市近郊のフロワドヴィルで研究を再開し、フリブール大学正教授として民族学を講じた。1952年にはウィーン開催の第4回国際人類学・民族学会議で名誉会長を務めたが、2年後の54年、次第に強まる自説への批判および同僚の間で深まる孤立の中85年の生涯を終えた。彼は神父として一生独身であった。

ドイツ語圏民族学の系譜

 18世紀末のゲッティンゲン大学において民族誌民族学という概念が生まれた後、世界各地から様々な民族についての報告が蓄積されたのを受けて、19世紀半ばになるとテーマごとあるいは地域ごとの集成が現れるようになった。アードルフ・バステアーン『世界の中の人間』全3巻(1860)とテオドール・ヴァイツ『自然民族の人類学』全6巻(1859〜72)がその代表であり、アドワード・タイラーは『原始文化』(1871)序文において、「特に利用した専著2点」として両者に言及している。

 「民族学の父」と称されるバスティアーンはベルリン民族学博物館の創設者、ベルリン民族学会設立者の1人、そして機関誌『民族学雑誌』創刊者の1人であり、「原質思念」という概念を提唱した。これは、人間の心理は基本的に同一であって、世界各地に見られる類似の現象や文化要素の存在はこの同一性に基礎をおき、同様な進化の道筋を辿った結果である、という考え方である。進化論の1つの理論的根拠として歓迎され、ドイツ語圏では20世紀初めまで影響力を保った。

 しかし20世紀初頭からこれへの反動もあって、歴史上の伝播の方をより重視する伝播主義が起こってくる。そうした中でフリッツ・グレープナーから「文化圏」概念を受容して発展させ、「文化圏説」「文化史学派」と呼ばれる一大学派をウィーンで形成したのがシュミットだ。

 他方、レオ・フロべニウスが開始した「文化形態学」はこれとやや性格を異にする。彼によれば文化とは、生成・発展・変容・衰退といったプロセスを有機的に経ながら形態を転々としてゆくような実体であり、個々の人間はそうした文化の遂げる運命の中で生きる存在に過ぎない。そして文化が人間に対して働きかける教育力・馴化力(ないしは文化の魂)のごときものを、彼はギリシャ語をもとに「パイドイマ(Paideuma)」と呼んだ。これと同名の雑誌『パイドイマ』(1938年創刊)は、フランクフルト大学の文化形態学研究所におけるフロべニウスの後継者アードルフ・E・イェンゼンを経て、現在も刊行され続けている。

 ドイツ語圏民族学ではこれらの他、ヘルマン・バウマンらの「世俗的」な文化史研究、リヒャルト・トゥルンヴァルトらの機能主義といった別個の潮流も存在したが、シュミットらの文化圏説とフロべニウスらの文化形態学とが、第二次大戦前における二大学派をなしていた。しかしナチス政権下において、民族学は他の学問分野以上の変容を余儀なくされた。先述の通りシュミットらはスイスへ亡命し、文化形態学のイェンゼンらは周縁に追いやられ、エリック・ウルフなどに見られるように頭脳流出も激しかった一方、ナチスへの協力者も続出した。このため戦後の民族学は再出発に時間を要しただけでなく、今なお過去のトラウマに対し自省的にならざるをえない状況にある。

シュミットの原始一神教

 さてシュミット理論たちに戻そう。彼の原始一神教説とは、人類史上最古段階においてすでに唯一の至高存在すなわち神による啓示と、その神への信仰が存在していた、という説である。これが出てきた背景には、19世紀後半における進化論の隆盛があった。進化論では神による人類創造を否定し、タイラーは霊魂信仰(アニミズム)から多神教を経て一神教へという宗教の進化図式を描いた。またヨーロッパ諸国では知識人たちがキリスト教に懐疑の目を向けはじめ、社会の世俗化が進んだ。

 これはとりわけ、カトリック側にとって由々しき事態であった。敬虔なカトリック家庭で育ち、しかも一神父として護教的義務感も強かったシュミットがこの説を学問的に実証しようとしたのは、ある意味自然な成り行きであった。しかし本来、原始一神教説はシュミットの独創ではない。もとはタイラーを批判した英国のアンドルー・ラングが提出したアイディアを、シュミットは間接的に受容したのである。

 まずシュミットは1908〜10年の『アントロポス』誌に論文「神観念の起源」をフランス語で発表した。これは当時フランスの方が反教会的機運の高まりを見せていたため、速やかに対抗言説を出さなければ、という危惧の現れであった。また1910年には『人類発展史におけるピグミー諸民族の位置』を出版、低身長の諸民族こそ人類の最古段階を体現していると考え、その調査へと同僚の神言会神父たちを送り出してゆく。すなわち高弟でかつ協力者ともなるヴィルヘルム・コッパースを南米のフエゴ島へ、パウル・シェベスタをマレー半島やフィリピンのいわゆるネグリート系諸族および中央アフリカのピグミー系諸族のもとへ、そしてマルティン・グジンデをフエゴ島およびコンゴのピグミー諸族へ派遣し、浩瀚な調査記録を刊行させることとなる。

 こうした資料の増加とともに、シュミットの主著『神観念の起源』全12巻が着々と上梓されていった。1912年に初版が出た第1巻は従来の民族学における宗教研究を批判的に検討しており、その改訂第2版は1926年に出版された。続く第2〜6巻(1929〜35年)はアメリカ大陸・アジア・オーストラリア・アフリカの「原民族」つまり狩猟採集民を扱っており、残る第7〜12巻(1940〜54年)はアフリカ・アジアの牧畜民をテーマとする。合計1万頁を超える大著である。

 シュミットの生前から、彼の原始一神教説には批判が多かった。例えばラドクリフ=ブラウンはアンダマン島民の神観念について、シュミットの偏見を指摘した。またイタリアの宗教史学者ラッファエーレ・ペッタッツォー二も、真の一神教多神教への反発として宗教改革者により形成されてきたと述べ、シュミットと論争を繰り広げた。

文化圏体系の展開と崩壊

 文化圏とは、長期間にわたり安定し、かつ内容の大きな変化を伴うことなく移動しうるような諸文化要素の複合である。このため世界各地に似たような文化圏を見いだすことができるとされ、この文化圏を時間軸で把握したものが文化層と呼ばれる。このように文化圏というアイディアそのものは、北米人類学においてフランツ・ボアズ門下のクラーク・ウィスラーが出した「文化領域」と類似する面もある。しかしドイツ語圏ではまずグレープナーがこれを理論化し、シュミットが独自の体系を作りあげた。

 その際、グレープナーと並んでシュミットに強い影響を与えたのは、エルンスト・グローセであった。すなわちグローセによれば、人類の経済形態は低級狩猟民、高級狩猟民、牧畜民、低級農耕民、高級農耕民の5つに分類できるという。シュミットはこうした経済形態と社会組織、さらに語族というほぼ3つの指標を用いながら、文化圏体系を構想した。その体系には、発表された年次によりかなりの揺れや変更が見られるが、要するに経済形態や社会組織および言語のほか物質文化や宗教も包括し、かつ世界大的な規模で人類史を再構成しようという試みであった。しかし過度の図式化傾向を避けることができなかったため、次第に批判の声が強くなり、その死とともに事実上崩壊したのである。

日本への影響

 とはいえ1930年代のウィーンは、シュミットをれいしゅうとするその学派がもっとも輝いていた時期だった。そのためウィーンで学ぶなどとして大きな影響を受けた日本人研究者も少なくない。まず岡正雄は1929年からウィーンに留学し、シュミットらに師事して『古日本の文化層』という博士論文により学位を得、1935年に帰国した。そして同年にはシュミットを日本への講演旅行に招いた。なお岡と時を同じくして、米国のクライド・クラックホーンなどもウィーンに留学していた。

 岡の勧めを受けた石田英一郎は1937〜39年にウィーンで学び、やはり文化史的民族学への志向性も抱きつつ、戦後は東京大学で総合人類学を発展させた。さらに神言会士でもあった沼沢喜市は学においてシュミットの指導を受け、ここで博士号を得て帰国後、南山大学で教鞭を執った。

 他に、シュミットから直接の教えは受けていないがウィーンに留学・滞在して間接的な影響を受けた日本人として、大林太良と白鳥芳郎などを挙げることができ、またシュミットの歴史民族学・宗教民族学を受容した研究者には、宇野円空や棚瀬襄爾らがいる。

用語解説

原質思念(Elementargedanke) 人類の心理は基本的に同一で、世界各地に見られる類似の現象や文化要素の存在はこの同一性に基礎をおき、同様な進化の道筋を辿った結果である、という考え方でバステアーンが提唱。心理学者カール・G・ユングの「元型(Archetyp)」概念などもここから1つのヒントを得ている。

原始一神教説(Urmonotheismus) 人類史上最古段階においてすでに唯一の至高存在すなわち神による啓示と、その神への信仰が存在していた、という説。進化論および世俗化という時代的背景に対するカトリック側からの反応として、護教的・神学的に提出された学説である。

文化圏(Kulturkreis) 長期間にわたり安定し、かつ内容の大きな変化を伴うことなく移動シウルような諸文化要素の複合。

文化形態学(Kulturmorphologie) 文化とは、生成・発展・変容・衰退といったプロセスを有機的に経ながら形態を転々としてゆくような実体であり、個々の人間はそうした文化の遂げる運命の中で生きる存在にすぎない、という発想に基づく一学派で、風呂べニウスやイェンゼンが主導した。

文化人类学入门(2)- 爱德华·伯内特·泰勒

此文翻译于ミネルヴァ書房出版的《はじめて学ぶ文化人類学

 

Edward Burnett Tylor1832-1917

 

轻的泰勒与人类学的诞生

    泰勒同美国的路易斯·亨利·摩尔根并称为近代人类学之父,更因开创了进化论人类学而为人所知。摩尔根的研究对象为美洲大陆原住民,聚焦于技术及社会制度的演化;而泰勒的主要研究成果在于宗教研究的领域。他所提倡的泛灵论,模拟巫术,交表婚,亲从子名制等概念成为人类学基础的一部分,直到今天仍被使用。从职业角度来说,1884年泰勒受聘为牛津大学副教授,1896年晋升为教授,开创了在教育机构讲授人类学的先河,为人类学在大学教育中争取了一席之地。可以不过分地说,人类学作为一门学科,始于泰勒。

    泰勒于1832年生于伦敦,与法国的社会学家爱米尔·涂尔干同于1917结束了他长达85岁的一生。他的家庭条件较好,父母是贵格教派的基督徒。在考察泰勒的学术背景时,有两点值得注意:一是他于当时工业革命的中心伦敦迎来青年时期,二是他生于贵格教派家庭。

    1851年,泰勒参加了在伦敦举办的世界首次万国博览会。在开会仪式上,阿尔伯特表示举办万博会的意义在于:“诚实地审视并展示人类的发展现状”。万博通过展示工业革命带来的各种新型机械,力图描绘人类的未来画卷。同时,通过展示大英帝国从世界各地收刮来的物品,万博会试图刻画从未开到文明的进程。可以说,泰勒的人类学之所以近乎过分的强调进化是受其时代背景的影响的。

    另一点,泰勒生于贵格教家庭。相对于保守的英国国教会而言,诞生于17纪的贵格教可以说是进步的。贵格教徒反对奴隶贸易,最终造成了奴隶制的废止。当时的牛津及剑桥大学只接受英国国教信徒,泰勒被拒之门外,开始周游世界,增广见闻。他在1854年的游至墨西哥时,与同是贵格教徒的亨利·克里斯蒂(也就是后来的皮特·里维斯)相识,两人一拍即合,开始了长达4个月的考古学及民族学调查。

    泰勒的墨西哥之行促成了他的第一部著作《古代与现代的墨西哥墨西哥人》(《Anahuac or Mexico and the MexicansAncient and Modern》1861)。此著作有类似民族志的一面,描写了墨西哥古代文明遗迹,现代的监狱,斗鸡风俗,人民的劳动条件等等。另外关于此书,我想直接引用泰勒关于克里斯蒂的描写及英国人类学家戈弗雷·林哈德对这个描写的解说“‘1856年春,我在哈瓦那的马车上和克里斯蒂偶遇。他已经在古巴呆了好几个月,过着丰富多彩的生活。他去过蔗糖农场,铜矿山,咖啡农庄,去过洞窟里探险,在热带密林里采集食物……他什么人都结交过,甚至奴隶商人和刺客之流。’英国人类学之父泰勒带着一股子浪漫主义的气息,被其他学科的‘态度严谨’的研究者轻视。人类学可以说诞生于古巴的马车,有点“疯”是正常的。但泰勒的文章可贵的在于重视各种自身体验。他的后继者们也重视这一点,奠定了人类学重视田野调查的根基。”(林哈德,《爱德华·泰勒》)。

    泰勒是“书房里的人类学家”,一生没有做过后来由马林诺夫斯基所提倡的严格意义上的田野调查。然而数年间游行于美洲大陆,认识各种各样的文化,结实各种各样的人,给了他如林哈德所说的注重自身实际体验的价值观。他收到来自塔斯马尼亚岛的剥皮机后,特意拿到家附近的屠户店里去试验;观察女性用织布机织布的样子;为了理解澳大利亚原住民的身体语言跑去聋哑学校学习,身在英国仍设法学习多样的文化。在19纪的英国,同样研究人类学的还有法律人类学的亨利·梅恩,比较神话学的马克斯·缪勒,提出了“掠夺婚”的约翰·福格森,而时至今日还受到人们赞赏的只有泰勒。泰勒的名声无疑来源于他对自身体验的重视和他的体验的准确度,和他概括性偏低的理论——这些理论可以通过自身体验推测得出——的偏好。

义文化

    墨西哥之行让泰勒开始关注其他国家的风俗习惯,回国之后他开始了自己的研究。他一面学习梵语和欧美各国的语言,一面开始着手收集和分析当时被认为是没有开化的各个国家地区的民族志。1865年他的著作《关于人类早期的历史及文明发展的研究》出版,1871年,分上下两卷总计一千多页的《原始文化》也出版了。

    这本书对人类学史做出的最大的贡献,在于其开篇对文化做出的定义(以下引用于《原始文化》):

    “文化是一个复杂的总体,包括知识、信仰、艺术、道德、法律、风俗以及人类在社会里所得到的一切能力与习惯。“

    这就是时至今日也经常被引用的文化的定义。不过泰勒的这个定义和后来的公认的文化的定义有相同之处,也有不同。泰勒认为文化是一个总体,这一点一直受到好评。但泰勒没有区分文化和文明的概念。而且他称社会及人种时用复数,而称文化和文明时却用单数,说明他虽然承认民族和文化具有多样性,却只把这种多样性归结于文明的进化阶段的不同。

    泰勒认为:“人类史是自然史的一部分。自然法则致使我们的思考方式,欲望和行为趋于一致。就像自然法则下的波的运动,酸碱的结合和动植物的成长一样。”在重视自然科学的19纪,这个说法看上去不无道理。但是泰勒明白把自然科学套用在人类研究上难免会遭人非议。因此为了证明他的理论,证明人类的文化具有普遍性,他研究世界各地的文化,试图找出每一种文化在他的人类文化发展模型中的位置。

    “欧美文明在社会发展进程的一端,另一端则是各个野蛮的部族。而其他社会的文明程度则在这两端之间。……按照文明程度从低到高排序,应该是澳大利亚原住民,大溪地人,阿兹特克人,中国人,意大利人。”我们今天看来,这个说法充满了偏见。很多人对泰勒的著作的批判也集中在他关于文化的进化的理论上。但泰勒的这个理论放在当时的年代背景下也有其历史意义。在当时的英国,达尔文于1859发表的生物进化论正遭受英国国教会的强烈抨击。泰勒的<原始文化>的出版可以说为进化论阵营打了一针强心剂。达尔文对这本书的出版也是喜出望外,据说还特意写信给泰勒表示称赞。

泰勒和弗雷

    泰勒的著作对于人类学的发展也起了极大的贡献。在当时的伦敦人类学界,1863年在法国的脑医学家皮埃尔·保尔·布罗卡的影响下成立的伦敦人类学会是全英国最有势力的学会。这个学会宣扬种族主义,称人类起源于几个不同的原始人种,而这些人种的智力天生存在差异。他们的主张因为简单痛快而备受推崇。因为这个学会的存在,人类学面临着沦为支撑种族主义的意识形态的危险。因此泰勒在他的进化论中说:“为了我们当下的目标,应不考虑人种间的遗传差异,而认为人类就其本质来说都是一样的,不同种族的文明的现状只反应其文明发展的程度。”

    如果如泰勒所说,人类的本质都是一样的话,那么我们就不能因为某一种人还处于“未开化”的文明状态,就把他们视作奴隶,或否定他们的人性。虽然泰勒的主张把西洋文化放在人类文明进化的最高点,带有自民族中心主义的特点,但他也承认“未开化”的“野蛮”民族也有自己的文明甚至宗教。这在当时的社会背景下也算是较为人性化的看法。

    泰勒收集了世界各个民族各种各样的仪式和宗教习惯。为了分析这些数据,他创造了两个概念,一是“泛灵论”,二是“残遗”。他认为泛灵论是人类最原始的宗教形态。原始人类被梦,附体,生死等难以理解的经验围绕,“未开化的思想家”们认为人类灵魂是唯一的解释。由此派生出认为万物皆有灵魂的泛灵论。泰勒认为,人类宗教的进化是从最原始的泛灵论发展出多神教,而多神教又进化成一神教

    如果真如泰勒所想,所有文化的起源相同,那么信仰一神教的社会文化中应该也有泛灵论的要素。泰勒认为,信仰一神教的社会中较为低级的文化要素受到高级的文化要素的挤压,变为迷信或民间信仰“残遗”下来。他在《原始文化》中就列举了一系列在当时的“未开化”社会所能看到的一些风俗习惯,和欧美社会中和这些风俗习惯类似的民间信仰和习惯。

    泰勒立志于收集与列举,而詹姆斯·乔治·弗雷泽则从经典出发,通过比较欧美社会和未开化社会的传承及习俗,试图补全古代的文化形态。弗雷泽的主要著作《金枝篇1911)就围绕着意大利内米湖周边的传说展开:内米湖畔有一棵黄金树,森林之王日夜守护着这棵树。若有别的人想要称王,就必须手持金枝斩杀先王。

    为了解开这个传说之谜,弗雷泽探寻了流传在世界各地的树木崇拜和弑王的风俗。例如据殖民地时期的人类学者称,在非洲很多地方,王被视作整个国家国土的繁荣与丰饶的象征。王生病或体力衰弱时,为了防止王的衰弱感染到国土,他们会选择杀死王,或者王会自杀。这就是作为的“巫王”。参考这些现象,弗雷泽解开了意大利内米湖畔的传说之谜。

    弗雷泽的文体优美,世界上很多人都爱读。他的著作也大大的影响了我国民俗学之父——柳田国男。不过在我们今天开来,弗雷泽是一位经典学家,文学家,而不是人类学家。而一直以来被公认为人类学之父的则是泰勒。

    泰勒的<原始文化>出版后,他被选入英国的最高学会组织——王立协会。1883年,任牛津大学博物馆主任研究员,84年任牛津大学副教授,96年升为教授,后世界首都确立了文化人类学的教育体制。他还曾两度担任王立人类学会的会长,经济上援助了1894年的鲍亚士主导的对加拿大北西海岸的调查。他对英国人类学的贡献无愧于“英国人类学之父”的称号。

初めて学ぶ文化人類学(2)ーエドワード・バーネット・タイラー

このブログはミネルヴァ書房の「はじめて学ぶ文化人類学」からとっている。

本章の著者は 竹沢尚一郎 です。

 

エドワード・バーネット・タイラー

(Edward Burnett Tylor :1832-1917)

若きタイラーと人類学の誕生

 タイラーは、アメリカのルイス・H・モーガンとともに近代人類学の祖として、とりわけ進化論人類学の祖として知られている。アメリカ先住民のもとで研究したモーガンが技術と社会制度の進化に関心を寄せたのに対し、タイラーの功績は宗教研究の領域で際立っている。彼が作ったアニミズム類感呪術、交叉イトコ婚、テクノニミーなどの分析概念は今でも有効性をもち、人類学の基礎概念の一部となっている。キャリアの面でも、彼は1884年にオックスフォード大学の准教授(reader)として迎えられ、1896年から教授として世界で初めて人類学の専門教育を行うなど、人類学が大学制度の中に位置づけられる上で大きく貢献した。人類学という学問はタイラーとともに始まったと言っても過言でない。

 タイラーは1832年にロンドンで生まれ、フランスの社会学エミール・デュルケームと同じ1917年に85年の生涯を終えている。裕福なクエーカー教徒の両親のもとに生まれた子どもであった。タイラーの学問的背景を考える上で、産業革命の中心というべき英国のロンドンで青年期を迎えたことと、クエーカー教徒の家庭に生まれたことが大きな意味をもっている。

 1851年、タイラーは世界最初のロンドン万国博覧会に出かけている。開会式ではアルバート公が次のようにその意義を宣言した。「全人類が現在までに到達した発展の度合いを正直に問いかけ、その真の姿を描きだすこと」。万国博は産業革命が生んだ機械類を展示することで、人類の未来像を具現化しようとした。と同時にそれは、大英帝国の各地から集められた品々を展示することで、未開から文明に至る人類の発達を示そうとした。タイラーの人類学が不合理なほど進化にこだわった理由は、そうした時代背景にあったのだ。

 劣らず重要であったのがクエーカー教徒の家に生まれたことであった。保守的な英国国教会に対し、17世紀に誕生したクエーカーは進歩的であった。奴隷貿易に反対して奴隷制の廃止に導いたのはクエーカー教徒であったし、当時は英国国教会にのみ開かれていたオックスフォード大学やケンブリッジ大学への進学を拒まれたタイラーが、世界各地を訪れることで見聞を広めたのもそれが理由であった。彼が1854年のメキシコ旅行の途中で、やはりクエーカー教徒のヘンリー・クリスティ(のちのピット・リヴァース)と意気投合し、4ヶ月にわたって考古学と民族学の調査をしたのも偶然ではなかったのである。

 タイラーのメキシコ旅行からは、最初の著作である『アナワクーー古代と現代のメキシコとメキシコ人』(1861)が生まれている。それは、メキシコの古代文明や遺跡の描写から、刑務所、闘鶏、労働条件の記述までを含む一種の民族誌であったが、彼がクリスティについて書いている最初のページと、それへの英国人類学者ゴッドフリー・リーンハートの解説は、そのまま引用に値する「『1856年の春、私はハバナ乗合馬車で偶然クリスティ氏に会った。彼は何ヶ月も前からキューバに滞在し波瀾に富んだ生活を送っていた。砂糖のプランテーション、銅鉱山、コーヒーのエステイトを訪れ、洞窟を探検し、熱帯密林で植物を採集し、……奴隷商人や暗殺者まで、あらゆる種類の人たちを訪ねていた』イギリス人類学の父タイラーには、人類学者が時おり「謹厳な」諸科学の研究者によって軽蔑されるロマンチックな気風がむきだしになっている。なにしろキューバ乗合馬車から誕生したのも同然の学問であるから、多少ちぐはぐな面が会っても仕方ないだろう。しかしタイラーの文章には様々なじかの経験を重視する価値が含まれている。この価値が、彼の後継者たちを特徴づける現地調査に駆りたてたのだ」(リーンハート「エドワード・タイラー」)。

 生涯をアームチャーの人類学者として送ったタイラーは、のちにマリノフスキーが確立する厳密な意味でのフィールドワークを実施したことはなかった。しかし、数年間アメリカ大陸を旅行して様々な人々や文化に出会ったことが、彼にリーンハートの言う「じかの経験を重視する価値」を与えた。タイラーは、タスマニア島の皮はぎ器を手に入れると近所の肉屋で試させたし、女たちが杼をあやつって布を織るのを眺め、オーストラリア・アボリジニの身振り言語を理解するために聾唖学校に通うなど、英国にいながら多様な文化を学ぶことを厭わなかった。19世紀の英国には、法人類学のヘンリー・メイン、比較神話学のマックス・ミューラー、「略奪婚」のジョン・マクレナンなど、人類学に関心をもつ多彩な人材がいた。その中でタイラーだけが今日まで評価されているのは、彼の「じかの経験」を重視するある種のセンスと、それが可能にした射程の短い理論への嗜好によっていたに違いなかった。

文化を定義する

 メキシコ旅行で異国の慣習に関心をもったタイラーは、帰国後研究に邁進する。サンスクリットや欧米の言語を修めると同時に、当時「未開」と呼ばれていた世界各地の民族誌データの収集と分析に着手したのである。1865年に『人類の初期の歴史と文明発展に関する研究』を出版した彼は、1871年に全2巻、計1000ページに達する主著『原始文化』を出版した。

 人類学史の観点から見たこの本の功績は、何にもまして、冒頭で「文化」について明確な定義を行ったことである(以下、引用は『原始文化』による)。

 「文明ないし文化とは、民族誌的な広い意味に置いて、知識、信仰、芸術、倫理、法、慣習その他、社会の一員としての人間によって獲得される能力と習慣のあの複雑な総体である」。

 これが今日でもしばしば引用される「文化」の定義である。しかし、タイラーのこの定義と、のちの時代のそれとの間には差異と類似が存在することに留意したい。タイラーは「文化」を、「知識、信仰、芸術、倫理、法、慣習その他、社会の一員としての人間によって獲得される能力と習慣の複雑な総体」と定義しており、これは文化の総体的な理解として長く評価されてきた点である。反面、タイラーは文化と文明を区別せず、しかも社会や人種は常に複数形で用いたのに対し、文化や文明を複数形で用いたことはなかったそれは彼が、世界中の民族のもとで文化の差異があることを認めながらも、それを文明の進化の異なる段階に位置づけていたためであった。

 タイラーは、「人間の歴史は自然の歴史の一部であって、われわれの思考や意志や行動が一致する法則は、波動や酸と塩基の結合や植物と動物の成長を支配する法則と同じくらい決定的だ」と断言する。自然科学が優越した19世紀らしい発言だが、そうした自然科学の前提を人間の理解にもち込むと批判を招きかねないことを彼は理解していた。そのため、人類の文化の普遍性という彼の基本テーゼを証明するべく、世界中の文化の差異を集め、それを単一の発展図式の中に位置づけようとしたのである。

 「ヨーロッパとアメリカの教養世界は基準として社会の諸系列の一方の端を占めており、他方の端を占める野蛮な諸部族とのあいだに、教養生活と野蛮のいずれに近いかに応じて人類の残りが割り当てられる。……文化の序列において、オーストラリア人、タヒチ人、アズテカ人、中国人、イタリア人を、この順に並べることに意義を唱えるものはほとんどいないであろう」。今日のわれわれから見れば偏見に満ちた主張であり、彼の著作に対する批判の多くはこの文化進化に関するものである。しかし、それをタイラーの時代のコンテキストに置くなら、必ずしも無意味な議論ではなかった。当時のイギリスでは、ダーヴィンが1859年に発表した生物進化論は英国国教会から激しい批判を招いていた。それに対し、儀礼と宗教の単線的な進化を説いたタイラーの『原始文化』の出版は、進化論陣営にとっては格好の援護であった。とりわけダーヴィンはその出版を喜び、タイラーに手紙を送って賞賛したと言われている。

タイラーとフレイザー

 タイラーの著作が人類学の発展に果たした貢献は極めて大きなものがあった。当時のロンドンの人類学界では、フランスの脳医学者ポール・ブロカの影響下に「ロンドン人類学協会」が1863年に設立され、その勢力は科学団体としては英国一と言われるほどであった。その主張は、人類は起源の異なる複数の人種からなり、それゆえ人種間の知的能力には絶対的格差があるとする人種主義的な教説であり、その単純さと決定論が人気を呼んでいた。反面、それは人類学を人種差別のイデオロギーにまで切り下げる危険性をもっていた。そのためタイラーは進化について次のように主張したのである。「現在の目的のためには、人種の遺伝的偏差を考慮しないこと、人類をその本質においては同一だが、文明の異なる段階にあるものと見なすことは、可能だしまた望ましい」。

 タイラーが言うように人類が同一の本質をもつとすれば、ある集団が「未開」の状態にあるからといって、彼らを奴隷の地位にとどめたり、その存在を否定したりすることは許されない。彼が西洋文明を人類進化の頂点におく自民族中心主義の立場に立っていたのは否定できないが、他面で、「未開」や「野蛮」と呼ばれる人々のもとでも文明の存在を認め、宗教の存在を認めている点で、当時としてはヒューマンニスティックな側面をもっていたのである。

 世界中の民族の様々な儀礼や宗教的慣行を集めたタイラーは、分析のために2つの概念を導入した。「アニミズム」と「残存」である。彼はアニミズムを人類の原初的な宗教形態と考えたが、その理由は次のところにあった。人間は夢や憑依、生と死など、理解困難な経験にとり囲まれている。そこで「未開の思想家」が、人間のうちに霊魂が存在しなければこれらの現象は解釈できないと考え、霊魂の存在を想定した。そこから万物にも霊魂が宿っていると言うアニミズムが発生したのであり、宗教の原初形態としてのアニミズムから、多神教、ついで一神教へと人間の宗教は進化してきたと主張したのである。

 タイラーが考えたように、全ての文化が共通の特徴から出発したとすれば、一神教の世界にもアニミズムの要素は存在するはずである。そこでタイラーは、そうした基層文化の要素は高度な文明によって抑圧されたり変形されたりしながら、迷信や俗信の形で「残存」すると考えた。かくして彼の『原始文化』は、彼が未開と考えた諸社会では現在も観察され、西洋文明では俗信の形で存在する慣行や習俗を集めた一種の一覧表になったのである。

 タイラーが一種の一覧表の作成を目指したのに対し、西洋社会に伝えられる伝承や習俗を未開社会のそれと比較することで、断片的にのみ知られる古代の文化形態を再構成しようとしたのが、古典学から出発したジェイムズ・G・フレイザーであった。主著である『金枝編』(1911)で彼は、イタリアのネミにある湖にまつわる伝承から出発する。この湖のほとりには1本の黄金の木があり、昼も夜も「森の王」によって保護されている。新しく王になることを望むものは、この木の「金枝」を手にして先王を殺さなくてはならないという。

 この伝承の謎を解くために、フレイザーは世界中の樹木崇拝や王殺しの慣行を辿っていく。王殺しの慣行とは、例えば植民地期の人類学者の報告によれば、アフリカの王の多くは国土全体の繁栄と豊穣をつかさどる存在と考えられていたため、病気になったり衰弱したりした時には、そうした弱さが国土に感染することを防ぐべく殺されたり自死を選んだりしたという。ここに見られるのは「呪術師としての王」という観念であり、こうした事象を参照することで初めて先の伝承の意味が解明されるというのである。

 フレイザーのこの書は見事な文体で書かれたこともあり、世界中で読まれ、我が国の民俗学創始者である柳田国男にも大きな影響を与えたことが知られている。ただ、今日の人類学の観点から言えば、フレイザーは古典学者ないし文学者であり、人類学者とは見なされていない。それに対し、人類学の祖としての評価が与えられ続けているのはタイラーなのである。

 『原始文化』を出版した彼は、英国の学会組織の頂点に位置する王立協会員に選ばれ、1883年にオックスフォード大学博物館の主任学芸員、84年に同大学准教授、96年に教授になることで、世界で初めて文化人類学の再生産体制を確立した。また彼は王立人類学会の会長を2度つとめ、人類学の普及のために海外に出かける宣教師や軍人に宛てた手引書をつくり、1894年から行われるフランツ・ボアズのカナダ北西海岸での調査を支援するなど、まさに「英国人類学の父」としての名声をほしいままにしたのである。

用語解説

進化論人類学 すべての存在は単純から複雑へと発展してきたとする進化論に基づいて、人間が作り出した宗教や社会、技術も未開から文明へと進化してきたとする考え方。

アニミズム 人間や動物をはじめ、植物や天体などの万物に霊魂が宿っているとする考え方のこと。タイラーはこれを宗教のもっとも原初な形態と考えた。

 

文化人类学入门(1)

此文译自ミネルヴァ書房出版的<はじめて学ぶ文化人類学>

本章的作者是 岸上伸

 

引言

    文化人类学(或社会人类学),民族学,是通过对世界各地的文化及社会进行田野调查和研究,以探求何为“人类”为最终目的的学问。通过田野调查对特定的文化及社会中的人们的生活及生产活动进行记录的学问也叫“民族志”。民族志的起源据说可以追溯到公元前5纪的希罗多德;但文化人类学作为一门学问,通说始于爱德华·伯内特·泰勒对文化(Culture进行体系化的定义的研究。泰勒活跃于19纪后半,这么算来,文化人类学已经有将近150年的历史。

    书的目的,是以文化人类学史上主要的研究者的经历及其研究活动,内容及著作和其中的基本概念为主轴,将文化人类学的发展史分为从18801940年代的文化人类学形成期,到195080年代中期的发展期,至1980年代中期以后的文化人类学批判及最新的发展期为读者作一个尽可能简单而平易近人的介绍。另外,对于大量的日本研究者也将以专栏的形式作介绍。

    19纪后期的欧美社会以一元进化论为主流,认为人类的文化及社会向单一方向进展。到了20纪左右,在德国及奥地利兴起的文化传播论将其取而代之。而在美国,文化人类学的发展方向则和欧洲不同。

    20纪的美国,在法兰兹·鲍亚士的影响下,历史个别主义开始流行。这个流行后来发展成为以鲁思·本尼迪克特为代表的文化模式论和文化相对主义。再后来则演化出以大卫·施奈德及克利福德·格尔茨为代表的象征人类学和解释人类学。在美国,“文化人类学”这个名称被广泛接受。之后,一方面由鲍亚士开启的文化人类学一派继续发展,另一方面自1940年代起,以莱斯利·怀特及朱利安·斯图尔德为代表的文化进化论的影响力也开始扩大。文化进化论把重点放在法则的确立和文化的进化。至1960年,文化进化论的潮流开始消退,但继承了其一部分思想的生态人类学取得了飞跃性的进展。

    在英国,1920年代以雷德克里夫·布朗及勃洛尼斯拉夫马林诺夫斯基为代表的功能主义人类学登场了。功能主义人类学批判进化论及传播论,称其只不过是对人类史的想象及臆测;确立了强调科学方法和理论依据,基于田野调查的研究方法。这个传统一直延续到1950年。于美国不同,英国称此类研究为“社会人类学”。后来,接雷德克里夫·布朗任牛津大学社会人类学教授的埃万斯-普里查德宣布人类学由社会科学(描述)转变为人文学(现象的解释),大大改变了社会人类学的意义。此后一系列关于非洲,南亚,大洋洲等地的文化,社会的分析及分类,及仪式的研究应运而生。

    法国受马塞尔·莫斯,爱米尔·涂尔干及马克思主义思想的影响,发展出自成一派的人类学。其中之一是在19501970年代具有极大影响力的克洛德·列-斯特劳斯所提倡的结构主义人类学。到了1980年代,批判继承了结构主义人类学的以莫瑞斯·郭德列为代表的马克思主义人类学,和以皮埃尔·布迪厄为代表的实践理论开始流行。同时期,以丹·斯波伯为代表的象征研究也开始兴起。这三个学派直到本世纪仍在继续。

    1980年代,文化人类学界内掀起了一阵自我批判的思潮,致使文化人类学面临新的转折。其中,特别是关于田野调查人员及被调查人员之间潜在的权利关系,及调查人员对被调查人类进行描述时所产生的偏差的问题受到了讨论。在这个批判的思潮中,詹姆斯·克利福德所著的<文化的困境>指出了人类学者对他者的宏观而客观的叙述所存在的局限性,其出版对文化人类学造成了极大冲击。1980年代末,文化人类学的低迷和摸索的时代开始了。至今,文化人类学仍体现出其学派及发展的多样性。

    在美国,发展出实验性质的民族志,多地点人类学。另外,还有聚焦性别及种族,功能性社群,医疗,社会经济,环境问题及全球化问题等等多种多样的人类学。

    在英国,自1980年以降,由阿尔弗雷德·盖尔,丹尼·米勒,玛丽莲·斯特拉森,提姆·英戈尔德等人提倡的聚焦于物于人的关系的研究开始流行。这个流派是后来出现的存在主义人类学研究的先驱。

    在法国则有以布鲁诺·拉图尔为代表的科学技术研究,和菲利普·德斯科拉的对人与自然的关系的生态人类学研究。巴西有爱德华多·巴塔尔哈·维韦罗斯·德·卡斯特罗以人与动物的关系的独特视角的美洲大陆原住民研究;荷兰则有安娜玛丽·莫尔的医疗人类学研究。上述的研究被统称为“存在主义人类学”。

    书中提到的文化人类学,社会人类学,民俗学,虽然侧重点各不相同,但其研究内容实际相去不远。另请注意,美国流派的文化人类学包含记录描述各种各样的人类的生活方式的民族志学,及比较各种生活方式和将其上升到理论层面的民族学

    文化人类学诞生50年以来,产生了多种多样的亚学科和各不相同的见解和假说。目前,以对学者的介绍为主轴解说文化人类学的著作有蒲生正男编『現代文化人類学のエッセンスーー文化人類学理論の歴史と展開』(ペリカン社、1978年)及绫部恒雄编『文化人類学群像1~3』(アカデミア出版会、1985・1988・1988年)等等。这些著作主要介绍已经盖棺定论的学说及学者,对文化人类学的入门有很大帮助。但这些著作最新的距今已将近有30年,在这期间,文化人类学领域不仅出现了大量新的研究,研究的主题及对象,研究方法也趋于多样化。因此编者认为一部新的包含了最新的研究的文化人类学入门书籍是很有必要的。刚好,ミネルヴァ書房提议出这么一本书,我不自量力,大胆的接下了主编一任。

    希望本书能够让更多的人了解文化人类学。在此,我谨向本书各章的作者及编辑的前田友美女士致以由衷的感谢。

 

20181

岸上伸